2016年11月17日木曜日

第26回「参火会」11月例会 (通算392回) 2016年11月15日(火) 実施

「現代史を考える集い」 22回目  昭和43・44年 "昭和元禄"





今回は、NHK制作DVD22巻目の映像──
小笠原諸島日本復帰、第8回参議院選挙タレント候補大量当選、皇居・新宮殿落成式、明治百年記念式典、川端康成ノーベル文学賞受賞、オリンピック・メキシコ大会開催、米空母エンタープライズ佐世保に入港、王子・米軍野戦病院設置反対デモ、国際反戦デ―・新宿で大乱闘、イタイタイ病・水俣病など公害病と認定、日本初の心臓移植手術、飛騨川バス転落事故、有馬温泉の旅館火災、金嬉老事件、3億円強奪事件、日大20億円脱税から紛争に、東大医学部闘争(全学無期限スト・入試中止・全共闘安田講堂占拠・機動隊突入)、新宿西口反対フォークソング集会、佐藤首相訪米・日米共同声明、原子力船「むつ」進水、チクロ使用禁止、米アポロ11号月面着陸、東名高速道路全線開通ほか約50分を視聴後、この時代をふりかえる話し合いを行いました。







「この時代の背景」

前回の昭和41年・42年を含め、今回の43年・44年も、すべて佐藤栄作内閣の時代でした。昭和39年(1964年)11月、東京オリンピックの閉会を待っていたかのように、病気辞任した池田勇人を引きついだ佐藤は、退任する昭和47年7月まで、7年8か月という日本の内閣史上最長の記録を作りました。

また、この期間は、昭和40年ごろの一時的不況はあったものの、経済成長率10%以上を毎年のように超え、昭和44年末には国民総生産額が62兆円に達して、ついにイギリスや西ドイツを抜いて、資本主義世界ではアメリカに次いで第2位となりました。「いざなぎ景気」に代わり「昭和元禄」が流行語になるほどでしたが、この好況持続の主要因となったのは、アメリカが主導するベトナム戦争の泥沼化による「ベトナム特需」によるものでした。

こうした急速な経済成長に伴って、農村の過疎化や都会の過密化が進み、交通難・住宅難・物価高・公害問題など、さまざまな矛盾が噴出してきました。これに対し政府は、池田時代からのバラマキ政策をとり続け、補助金や公共事業費を支出することによって、これらの矛盾から国民の目をそらそうとしました。また、赤字国債発行の連発で財政赤字を累積させて問題を後に残すなど、大きな禍根を残しています。

こんな高度成長のひずみに、都市住民の不満を背景とした昭和42年の統一地方選挙で、美濃部亮吉革新都知事の誕生など「革新自治体」の拡大につながりました。また、ベトナム反戦運動のさらなる高まりから、昭和43年に入ると、ベトナムへの北爆に参加するアメリカの原子力空母「エンタープライズ」の佐世保入港に対して学生や革新団体などは、激しい阻止闘争を巻きおこましました。

今回の昭和43年・44年の2年間は、「スチューデント・パワー爆発の時代」ともいわれています。「エンタープライズ」反対闘争に続き、王子野戦病院開設反対闘争(43年1~4月)、成田新国際空港反対闘争(42年11月~)、国際反戦デー新宿騒乱事件(43年10月21日)など、反日共系全学連が、これらの運動の中心となって、街頭や現地実力闘争を展開し、いちやく70年安保闘争の主役に躍り出ました。

警察発表では、43年末に全国115大学が紛争状態にあったといい、こんな学生による異議申し立てや反乱は、日本だけでなく、アメリカではベトナム反戦運動、フランスでは「5月革命」(43年5月・カルチェラタン闘争)という反政府運動をリードした他、西ドイツやイタリアなど先進資本主義国でもおこっていました。性格は異にするものの、中国の紅衛兵による「文化大革命」が、国家機構をマヒさせる事態を引き起こしていたのも、世界の流れと見るむきもあります。

日本の「学園闘争」の頂点に立ったのが、「日大闘争」と「東大闘争」でした。当時日大は、10万人の学生を擁する日本一のマンモス大学でしたが、学生の自治活動は、厳しく抑制されていました。それが43年4月に、東京国税庁の摘発によって、20億円の使途不明金が明らかにされると、鎮静を強いられてきた学生たちは、怒りを爆発させ、5月に全学共闘会議(秋田明大議長)を結成させて、学園民主化闘争を開始しました。大学当局との大衆団交を要求したり、各学部がバリケード・ストライキに突入すると、大学側に立って日本刀などで武装した体育会系学生の殴り込みや、再三の機動隊との衝突で数百人もの負傷者・逮捕者を出すなど、他の学園闘争にはない激しいものでしたが、少しずつ一般学生たちの支持を拡大させていきます。

9月30日の両国講堂での全学集会(団交)では、翌朝3時まで12時間にわたる数万人の学生の追及の前で、古田会頭以下、全理事が退陣を表明。これまでの対応を謝罪し、学生自治権の回復、体育会の解散などを約束しました。学生たちは「これで大学は正常化する」と喜んだものの、翌日佐藤首相は、「大衆団交」について「こんな集団暴力は許せない」と発言し、政治問題化します。そして10月3日、大学側は一転して約束を破棄、秋田議長ら指導者に逮捕状が出されました。翌年2月には機動隊を導入してストを解除し、ロックアウトを行い、学生たちから誓約書を取って授業を再開すると、運動は下火になっていきました。

「東大闘争」は、43年1月、「インターン制度」廃止にともなう「登録医制度反対」の医学部無期限ストが発端でした。これに対し医学部当局は3月に17人の学生の処分を発表します。その中の一人がそのころ東京にいなかったのに処分されるという「事実誤認問題」がおこると、学生側は態度を硬化させ、数十人が安田講堂を占拠しました。すると6月、大学当局がこれを排除するため機動隊を導入したことから、紛争はいっきに全学に拡がり、10月には全学部がストに入るという開学以来初となる異常事態となりました。

紛争は長期化し、大量留年、入試中止が懸念されるようになると、事態収拾の動きがではじめ、44年の1月10日には、7学部の学生代表団と大学当局との交渉により、10項目の確認書が交わされました。医学部処分の撤回、大学運営に学生も参加などでしたが、政府はこれに強く反発、この年の入試は中止としました。また、この話し合いに参加しなかった全共闘系学生は、15日に安田講堂をバリケード補強するなど要塞化し、支援する他大学学生や労働者などが立てこもって対決色を強めていきました。





退任した大河内一男学長に代って加藤一郎総長代行は、何度も交渉を重ねたにもかかわらず、話し合いに応じない学生たちの抵抗にしびれを切らし、警察に占拠排除を要請します。こうして1月18日午前7時、機動隊8500人が出動してバリケードの撤去を開始し、工学部・医学部・法学部などにガス銃の一斉射撃・放水をくりかえすと、学生側も投石や火炎瓶などで応戦するものの、昼ごろまでに封鎖は解除されました。

全共闘主力が立てこもる安田講堂に機動隊が突入したのは午後3時ごろで、講堂周辺は4機のヘリコプターから投下された催涙ガスの白い霧に包まれる中、講堂に滝のような放水を浴びせ、学生側は投石と火炎瓶で頑なに抵抗しました。結局、機動隊が講堂最上階の時計台に達し、学生たち全員を排除したのは、翌日の午後5時45分のことでした。この2日間にわたる「安田砦攻防戦」は、全国にテレビ中継され、日本じゅうの人々が衝撃の映像を見続けました。

いっぽう、この攻防戦がつづいているころ、神田駿河台周辺では、中大、明大、日大を中心とした学生たちが、フランスの「バリ5月革命」(カルチェラタン闘争)にならって、機動隊と市街戦をくりひろげ、御茶ノ水駅から神保町に至る道路の一部を封鎖して「解放区」にしていました。

こうした「安田講堂」や「解放区」が解除されて一連の騒動が終わると、大多数の学生を巻き込んだ東大・日大の学生運動は、いっきに下火になるいっぽう、その他の大学では、闘争のテーマは違っても、全共闘は依然として健在で、全国165大学が「バリケード・ストライキ」を行い、11月には佐藤首相が沖縄返還交渉のために訪米する際には、抗議のゲリラ戦を演じて2000人以上が逮捕されたりしました。

やがて、全共闘内部の対立と戦術の過激化から、一般学生や市民の支持を失い、「革マル」(革命的マルクス主義派)、「社青同」(社会主義青年同盟)、超過激な「赤軍派」など各派に分裂してどんどん少数になり、運動は鎮静化していったのでした……。

会の後半は、前回に引き続き、メンバーの郡山・岩崎・小田・菅原各氏の「近況報告」が行われました。当時の「上智大学」にも学園紛争があり、日大闘争のような大規模なものではなかったものの、法政大学などの支援を受けた学生によるバリケードストライキ、これに対抗した大学側が機動隊出動を要請してロックアウトするなど、騒然とした一時期があった話には、多くのメンバーの関心を引きました。また、アメリカの大統領選に勝利した「トランプ・ショック」の話にも盛り上がり、今後の「昭和史研究の集い」の後半は、その後の「トランプ・アメリカ」など、話題のニュースをとりあげて話し合いをしようということになりました。


「参火会」11月例会 参加者
 (50音順・敬称略)



  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2016年10月20日木曜日

第26回「参火会」10月例会 (通算391回) 2016年10月18日(火) 実施

今回の「参火会」例会は、8月が大学の夏季休暇、9月は台風16号が関東接近のために休会となったため、3か月ぶりの開催となりました。恒例の「昭和史を考える集い」を変更し、メンバーの植田康夫氏が最近出版された『戦後史の現場検証━ルポライターの取材メモから』のお話を聞くことからスタートしました。




この本は、植田氏が大学を卒業後、「週刊読書人」に入社してわずか4年後の1965(昭和40)年に企画、「週刊読書人」に昭和41~43年(3年間)にわたって掲載した松浦総三、青地晨、草柳大蔵、田原総一朗ら第一線のジャーナリスト20名による渾身のルポルタージュ128編を収録した大著 (植田康夫編・創元社刊) です。




はじめに「ルポライターの見た戦後史」として、ルポライターの草分け的存在だった梶山季之と草柳大蔵両氏による対談があり、占領時代の松川事件、60年安保闘争、浅沼事件、東京オリンピックをめぐる裏情報など、「特ダネ」ともいえる内容の数々に、まず驚かされます。

全体の構成は、5章からなり、つぎのような目次になっています。

第1章 戦後理念の揺らぎ
45年(昭和20年)の実像・民主化の陰の人々・消えた民主人民戦線・20年前の保守と革新・戦後財界の黎明・2.1スト中止命令・松川の黒い霧①②③・知られざる言論弾圧①②③・朝鮮戦争と再軍備①~④・レッドパージ①~⑤

第2章 サンフランシスコ講和から血のメーデーまで
昭電疑獄と「中央公論」①②・講和と安保①~⑤・血のメーデー①~⑥・極左冒険主義の陰に①~⑩・「菅生事件」を追って①②・20年代の帰結 青梅事件①②③

第3章 出版界と言論ジャーナリズムの転換
転換するジャーナリズム①~⑭・砂川 そこに戦う人々①~④・長崎国旗事件の背景①②・ミッチ―ブームの裏側①~④・和歌山勤評闘争の背景①②③

第4章 日米安保とジャーナリズムの使命
安保闘争 市民運動の高揚①~⑤・安保闘争 体制側の論理と行動①~⑥・安保闘争 全学連をめぐる混迷・「安保」前後のマスコミ①~⑬

第5章 終わらざる戦後 
三池炭鉱事故の陰に①②・進行する過疎化の実相①②・在日朝鮮人の苦悶①②③・日本の中のベトナム戦争①~⑤・終わらざる戦後①~⑦

タイトルだけ見ただけでも、いかに力の入った企画だったかがわかります。植田氏の、当時を思い出すかのように語る言葉の一つひとつは生き生きとし、特に「松川事件」「下山事件」「帝銀事件」などをめぐる謎の事件が、その裏にアメリカがいたことをにおわす部分など、迫力のあるものでした。そして、連載から50年後にして、創元社の矢部社長という方が、この連載を高く評価し、「今もまったく同じ問題に直面していることに注目」して出版を決意したことも、高く評価したいものです。

それにしても、昨年から『「週刊読書人」と戦後知識人』の刊行、『出版の冒険者たち。(活字を愛した者たちのドラマ)』の出版により、『本は世につれ。(ベストセラーはこうして生まれた)』『雑誌は見ていた。(戦後ジャーナリズムの興亡)』に続く「出版3部作」を完結させ、今回の「日本の今に覚醒を促す」ルポと、立て続けに話題作を連発する姿に、大きな拍手をおくりたいものです。植田氏は、まさに「日本に初めて出版論を学問として確立させた功績者」であり、そういう人物が、私たちメンバーの身近におられることを、誇らしく思います。




その後、メンバーの一人ひとりが、「最近やってきたこと」 「これからやりたいこと」 「今、こころを占めていること」等など……1人3~5分程度の「近況報告」をする予定でした。ところが、鴇沢・反畑・山本・草ヶ谷各氏4名の話をうかがった段階で、時間切れとなってしまい、他のメンバーのお話は、次回以降に順延することになりました。


「参火会」10月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 深澤雅子 文独1977年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2016年7月20日水曜日

第26回「参火会」7月例会 (通算390回) 2016年7月19日(火) 実施

「現代史を考える集い」 21回目  昭和41・42年 「経済大国をめざして」





今回は、NHK制作DVD20巻目の映像──
全日空機が羽田沖に墜落、カナダ航空機が羽田空港防波堤に衝突・炎上、BOAC機富士山付近で空中分解、YS11機が松山空港沖に墜落、愛知県・猿投町でダンプカーが暴走し園児11人死亡、戦後初の国債上場、世界最大級のタンカー「出光丸」進水、第1回物価メーデー、ビートルズ来日、NHK「おはなはん」放送開始、早大紛争始まる、千葉大チフス菌事件、荒船清十郎急行停車事件、田中彰治代議士恐喝・詐欺容疑で逮捕、共和製糖事件、衆議院「黒い霧解散」、衆議院総選挙・第2次佐藤内閣発足、美濃部革新都政誕生、佐藤首相外遊、佐藤・ジョンソン会談と日米共同声明、第1次羽田事件、吉田茂国葬、中央高速道路が一部開通、四日市ぜんそく訴訟、初の建国記念日……など約50分を視聴後、ベトナム戦争と反戦運動、中国・文化大革命、イスラエル・エジプト6日間戦争(第3次中東戦争)など、激動する世界について話し合いをしました。



「この時代の背景」

昭和39年(1964年)の「東京オリンピック」は、戦後の復興と先進国の仲間入りを世界に強烈にアピールした大会でした。しかし閉会の翌日、池田は病気辞任を発表。これを受けて同じ「吉田学校」の優等生でライバルだった佐藤栄作が首相となりました。

佐藤は、経済成長に全力をそそいでいた池田のやり残した政治・外交問題に取り組み、1965年(昭和40年)に日韓基本条約と付属の協定を結びました。さらに、沖縄の祖国復帰をめざす宣言をして、首相としてはじめて沖縄を訪問しました。高度経済成長も波に乗り、与野党の対立はあるものの大きな政治的な対立もなく、国民も猛烈に働きながら、「昭和元禄」を謳歌する時代でした。

しかし、海外に目を向けると、大きな動きを見せていました。

まず、「ベトナム戦争の激化と反戦運動の盛り上がり」です。そもそもアメリカがベトナムの内戦に介入するきっかけとなったのは、昭和37年(1962年)にアメリカが「南ベトナム」(ベトナム共和国)にベトナム軍事援助司令部を設置し、4千人もの軍事顧問団を派遣したことからでした。これが「北ベトナム」(ベトナム民主共和国)と、そのバックとなっている「ベトミン」(ベトナム独立同盟会・「ベトコン」はその兵士で、「南ベトナム解放戦線」を設立)を刺激し、内戦的なゲリラ戦があちこちで繰り返されていきます。

そんな小競り合いのなか、北ベトナム海域をパトロール中の米駆逐艦に北ベトナムの哨戒艇が攻撃を加える「トンキン事件」がおきました。これに対する報復として、昭和40年(1965年)2月に北ベトナム爆撃(北爆)を開始したアメリカは、重武装の海兵隊を投入し、大戦争に踏み切りました。(のちに「宣戦布告なき15年戦争」といわれる)  これに対抗して、中国やソ連が北ベトナムに大量の軍事物資を供給するなど介入をはじめ、ベトナムは冷戦下にある大国の代理戦争の様相を呈しはじめました。





以来、ジョンソン大統領の人気急落により、昭和43年(1968年)3月に北爆の停止と次期大統領選に不出馬を表明するまで、3年余り続いたアメリカ軍による北爆は、出撃機数26万機以上、投下爆弾16万トン以上(この中には、猛毒ダイオキシンの一種「枯葉剤」や強力な焼夷弾「ナパーム弾」も含まれていた) と大規模なものでした。このアメリカ軍の飛行機は、沖縄をはじめ、佐世保、横須賀、横田、岩国、三沢、相模原など、日本にある軍事施設は、アメリカがベトナム戦争を遂行する上で、不可欠なものでした。

日本政府は、日米安保条約がある以上、この戦争に中立であるわけにいかず、アメリカの政策を支持しつづけました。平和憲法があるため、自衛隊を直接派遣することはなかったものの、日本の産業界は資材や技術などをアメリカ軍に供給することにより、ベトナム特需が産みだされ、日本経済が大いに潤ったのは事実でした。

いっぽう、世界戦争に直結しそうなベトナム戦争に反対する「反戦運動」が、世界各地でおこります。アメリカの反戦運動は、大学から開始され、次第にその規模は拡大され、数十万、全米で数百万人の市民が参加する反戦デモまで組織されました。

日本の反戦運動は、当初は、当時の有力な労働組合「総評」が、ベトナム反戦を掲げてストライキを行いましたが、さまざまな無党派の市民運動が高まりはじめ、その代表といえるものが、1965年4月に発足した「ベトナムに平和を! 市民連合」(べ兵連)でした。

べ兵連の代表は作家の小田実(当時31歳)で、これまでの平和団体と異なり、規約・会員制度・役員選挙もなく、参加する市民の自発性によるユニークな活動を展開しました。この組織はその後の市民運動・NGOなどの原型を築いたものでした。その主な行動は、「反戦徹夜ティーチイン」(「東京12チャンネル」[今のテレビ東京]で放送) を行ったり、作家の開高健が中心となって『ニューヨークタイムズ』への意見広告の掲載、米脱走兵への援助、在日米軍兵士への反戦工作、東京新宿西口地下広場での「フォーク・ゲリラ集会」(毎週土曜日の夜、反戦フォークなどを歌う)など、広範な知識人がこれを支持・参加したほか、賛同する市民によって全国的な拡がりを見せ、各都市、大学、地域にべ兵連グループが作られ、最盛期の数は350を越えたといわれています。

いっぽう、隣国の中国では、昭和41年(1966年)5月に、「文化大革命」がはじまりました。当時の流行語になった「造反有理」は、背くことに理がある、反逆は正しいといった意味で、裏でこの革命を指導していた毛沢東は、中国が資本主義に傾斜することを防ぐには、革命を持続しなくてはならない。革命で新政権を作っても必ず腐敗する。だからまた、革命をつづけなくてはならないという持論を、当時10代の少年少女の「紅衛兵」に吹きこみ、これをを尖兵として、反革命分子を追放、粛清する運動を開始しました。3か月後には、紅衛兵旋風が巻き起こり、赤い腕章をつけたたくさんの中学・高校生らが、大人たちを次々につかまえて、三角帽子をかぶせ、糾弾しました。彼らは「黒五類」(こくごるい=地主・富豪・反動・腐敗・右派分子)と「四旧」(古い文化・思想・風俗・習慣)の破壊をスローガンに、連日連夜市内を駆けめぐり、知識人や市民をつるしあげたのです。毛沢東亡き後、中国近代化の象徴ともなった鄧小平も、つるしあげられた一人でした。こうして、北京を中心に全土で「文化大革命」が、10年もの長期間にわたって続きました。





翌年の昭和42年(1967年)6月5日には、イスラエル軍がエジプトを爆撃する「第3次中東戦争」が勃発しました。イスラエルの飛行機350機が、カイロ周辺にある20か所のエジプト空軍基地を一斉に攻撃し、エジプトの飛行機400機以上を地上で破壊、あっというまに制海権を奪いました。

つづいてイスラエルは、戦車を主力とした部隊を、ヨルダン領の東エルサレムを含むヨルダン川西岸、エジプトの占領下にあったゴザ地域、シナイ半島、シリア領のゴラン高原を占領しました。あわてた国連は11日、イスラエルとエジプト・シリア・ヨルダンに停戦要求し、双方がこれを受け入れたため大事にいたりませんでしたが、そのまま続けば、「世界戦争」につながりかねなかっただけに、全世界の人たちは、ほっと胸をなでおろしました。

イスラエルはこれを「6日間戦争」と呼んで誇らしげだったのに対し、エジプトとアラブ諸国はにとってこの敗北は大打撃となりました。11月になって国連安全保障理事会は、イスラエルに占領地からの撤退を要請し、中東諸国の主権を承認したものの、紛争の解決にまでは至らず、40万人ものパレスチナ人が難民として故郷を追われました。

またこの年の10月9日に、キューバ革命の功労者であるチェ・ゲバラが、ボリビアで戦死しました。世界革命を信じる人たちにとって、「どこにいようと、死がわれらに不意打ちをかけるなら、それを歓迎しようではないか」というゲバラの言葉は、彼らのスローガンの一つとされ、こんな社会主義革命が世界的に大きな動きとなっていた時代だったといえそうです。



「参火会」7月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒

2016年6月22日水曜日

第25回「参火会」6月例会 (通算389回) 2016年6月21日(火) 実施

「現代史を考える集い」20回目  昭和39・40年 「東京オリンピック」





今回は、NHK制作DVD20巻目の映像──
新潟地震、東京・品川の宝組化学品倉庫爆発、町田市商店街にジェット機墜落、米原子力潜水艦シードラゴン号佐世保入港、「蜂の巣城」陥落、ミロのビーナス公開、東海道新幹線開業、オリンピック東京大会開催、池田首相辞意表明・佐藤栄作内閣成立、日韓基本条約調印、衆議院で条約を強行採決、ベトナム戦争で北爆開始、ベ平連が初の反戦デモ、佐藤首相沖縄訪問、山陽特殊製鋼倒産、春闘・私鉄24時間スト、慶大・学費値上げ反対スト、東京の公衆浴場一斉休業、福岡・山野鉱ガス爆発、川崎市で土砂崩れ、ライフル銃乱射事件、朝永博士がノーベル物理学賞受賞、南極観測船「ふじ」出航……など約55分を視聴後、高度経済成長の象徴ともいえる東京オリンピック・東海道新幹線開業を中心に話し合いをしました。



「この時代の背景」





昭和39年という年は、何といっても「東京オリンピック」といってよいでしょう。戦後の復興と、先進国への仲間入りを世界に強烈にアピールした大会でした。10月10日の秋晴れの下、世界94か国、7492人の選手・役員が参加(史上最高)して、第18回オリンピック東京大会が開幕、7万4500人収容の国立競技場は超満員でふくれあがりました。それから15日後の10月24日夕方の閉会式では、整然とした開会式とはうって変わって、各国選手入り乱れながら、和やかに大会の幕を閉じるまで、多くの国民はテレビ中継にかじりつき、「スポーツの祭典」に酔いしれました。この15日間は、太平洋戦争で孤立した日本が「先進国入り」したことを実感した日々でもありました。選手たちの活躍もめざましく、体操、レスリング、柔道、重量挙げ、女子バレーなどを中心に、金16個、銀5個、銅8個のメダルを獲得。金メダルの数では、アメリカの36個、ソ連30個に次ぐものでした。

また、同年4月1日、日本がIMF(国際通貨基金)の8条国に移行したことで、「円」が世界の主要通貨と交換可能な通貨となり、戦後19年にして欧米主要国と並ぶ世界経済の仲間入りをはたしたことは、経済面でも世界から認められたことを意味していました。同時に、海外渡航が自由化され、これまでは政府関係、企業の業務関連、留学などに限られていた海外旅行が、一般の人たちへ開放されました。4月28日には、OECD(経済協力機構)の21番目の加盟国となり、アジアで唯一、国際社会で一人前の大人の国として認められました。輸入の自由化、外貨導入拡大ができる反面、発展途上国援助など、先進国としての義務と責任を負うことになりました。

9月7日には、IMF世界銀行東京総会が行われ、102か国1800人を前に、池田首相は「所得倍増計画は、国民に自覚と自信を与えた。戦後19年の高度成長で、日本の国民所得は、西欧水準に近づきつつあります。戦前80年でできなかったことを、戦後20年でやろうとしているが、これを可能にしたのは、国民の努力と国際協力である」と、胸を張りました。そして、10月1日には東海道新幹線が開業して、東京━大阪間を4時間(翌年11月には3時間10分)で走り、その9日後の東京オリンピック開幕となったわけです。また、この東京オリンピック開幕にあわせ、首都東京の大改革がなされ、首都高速道路・モノレール・地下鉄(丸の内線・日比谷線・浅草線)の交通網が整備されるなど、直接・間接投資は1兆円といわれる大規模なものでした。

ところが、東京オリンピックの中心となるべき池田首相は、このころガンに侵されて入院し、開会式にも病院から出席する状態で、オリンピック終了の翌10月25日、引退を表明しました。突然のことだったため選挙は行われず、11月9日に自民党両院議員総会で佐藤栄作が次期首相に決まり、同日、池田内閣の閣僚と高度経済成長をそのまま引き継いで、佐藤内閣がスタートしました。





昭和40年に入ると佐藤首相は、池田前首相が意識的に避けてきた政治的な問題への取り組みを開始。1月にケネディ暗殺後にアメリカ大統領を引き継いだジョンソンと会談し、日米間の懸案だった沖縄・小笠原諸島の施政権の問題を解決することを両者で確認しあいました。さらにジョンソン大統領は、経済成長を続ける日本に対し、アメリカの負担を肩代わりすることを求めました。

こうして佐藤首相は、沖縄問題を自身の内閣で解決せねばならないと自覚するとともに、8月には沖縄を訪問し「沖縄が祖国復帰しない限り、戦後が終わっていない」と、国民にもそれをしめしました。また、もう一つの懸案である韓国との国交正常化に取り組み、6月22日に「日韓基本条約」と関係協定、議定書の調印を行いました。これにより、韓国が朝鮮半島唯一の合法政府であることの確認がなされ、協定では対日請求権問題・在日韓国人の法的地位と待遇問題・漁業権問題などで合意し、韓国に対し総額8億ドル(2880億円)以上の経済協力を約束しました。

これに対し、両国とも学生を中心に大規模な反対運動が勃発しました。この条約が正式調印(批准)されると日本・韓国・アメリカの軍事同盟に発展し、アジアの平和安定が乱され、北朝鮮の出方次第では緊張が増すというものでした。両国の国会でも与野党の乱闘騒ぎがおきるものの、同年12月18日にソウルで批准書が交わされ、「日韓基本条約」が正式に成立しました。不人気な佐藤首相でしたが、歴史に残る成果を残すことになりました。

しかし、昭和40年度の補正予算として、佐藤内閣が行った戦後初となる「赤字国債」の発行を閣議で決めたことは、特筆せねばなりません。昭和40年は、急成長の矛盾が初めて表面化した年でもあり、山陽特殊鋼の倒産、山一証券の危機となって現れたことに対し、11月19日、歳入不足分を2590億円の赤字国債の発行で補うことを発表しました。これ以後、国債発行は雪だるま式に増えつづけ、わずか8年後の1973年に100兆円をこえ、現在1044兆円となっている財政赤字の端緒となりました。太平洋戦争中の「愛国国債」の乱発によるインフレの悪夢に難色を示した大蔵省(田中角栄大蔵相)が、押し切られたといわれています。

いっぽう目を外にむけると、昭和39年8月、トンキン湾で北ベトナムの哨戒艇が米国の駆逐艦2隻を攻撃するという事件がおこりました。ジョンソン米国大統領は、議会から、以後の武装攻撃を武力撃退してもよいという権限を与えられました。これに基づきジョンソンは、翌昭和40年2月7日、爆撃命令を下し、米軍の攻撃機70余機は国境を越え、北ベトナムのドンホイにある軍事基地を爆撃しました(北爆の開始)。さらに翌日には、重武装の海兵隊が投入し、以後27か月にも及ぶ、大戦争へ踏み切ったのでした……。

なお、「東京オリンピック」は、メンバー全員にとって、青春時代の大イベントだったことから、当時の思い出話に盛り上がる楽しい会となりました。

また、メンバーの竹内氏から、「参火会」(壱火会) のスタートした母体ともいえる「新聞学科同窓会」が54年の歴史があるにもかかわらず、長く休会状態なのは寂しい限りであること。特に、在校生たちとの交流に先鞭をつけ、新聞・出版・放送・広告の4分野から一人ずつ講師を立て、在校生たちに体験談を語る会は、とてもユニークで、こんな同窓会活動を行う学科は他に類を見ないもの……といった話をうかがいました。多くのメンバーの共感をえて、どんな方法で再活動をするのがよいか、今後の課題とすることになりました。



「参火会」6月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 深澤雅子 文独1977年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2016年5月18日水曜日

第24回「参火会」5月例会 (通算388回) 2016年5月17日(火) 実施

「現代史を考える集い」19回目  昭和37・38年 「先進国への道」





今回は、NHK制作DVD19巻目の映像──
若戸大橋開通、国産機YS11試験飛行成功、北陸トンネル開通、東京都の人口1000万人突破(世界初の1千万都市誕生)、太平洋側の諸都市に連日のスモッグで有害ガス発生、三河島二重衝突事故、京浜運河でタンカー衝突、三宅島の雄山大噴火、堀江青年がヨットで太平洋横断、F・原田がフライ級王者に、IMF8条国移行、黒四ダム完成、鶴見二重衝突事故、三池・三川鉱でガス爆発、吉展ちゃん誘拐事件、狭山事件、草加次郎事件、小さな親切運動始まる、新千円札発行、松川事件最高裁で無罪確定、吉田石松さんに無罪判決、プレオリンピック開催、大鵬6場所連続優勝、初の日米宇宙中継でケネディ暗殺を受信……など約52分を視聴し、東京オリンピックを翌年にひかえた時代を、資料を見ながら振り返りました。


 「この時代の背景」

安保・安保で日本じゅうが揺れ動いた昭和35年の前半でしたが、国民の大反発にあいながらも、新安保法案を自然成立させたことで、使命を終えた岸信介が退陣を表明。自民党総裁選に勝利した池田勇人は、鳩山・岸と続いた改憲・再軍備路線から、軽軍備・通商国家路線に切り替え、同年の年末に所得倍増計画を発表しました。

「経済成長率を年平均7.9%とし、今の国民総生産(GNP)13兆円を10年後に26兆円にします。そうすれば、今約10万円の国民所得は、倍の20万円になります。私はウソを申しません」━━この池田のスローガンは、その後長く続く、日本の高度成長の幕開きとなりました。

ただし、池田首相になってから急に高度成長がはじまったわけではなく、昭和30年ころから2年間ほどは「神武景気」といわれる好景気があり、33年は「鍋底景気」という不景気になるものの、34年ころからは「岩戸景気」といわれ、実質経済6%以上の成長をとげていました。そんな好景気を背景に、安保闘争でデモに励んだ人たちは、これからは懸命に働けば経済的利益が得られ、欧米並みの豊かな暮しができると、池田スローガンにあわせて、がむしゃらに働きはじめました。





こうして、昭和37年からの池田の高度経済成長方針は、重化学工業を中心とする工業化と都市化を本格化させ、それに必要な労働力を農村から都市へ吸引する政策を進めました。戦前の農林業の就業者が全就業者の50%以上だったのが、昭和37年には29%以下となり、その後も急速に減っていきました(昭和40年には25%)。農村の中学卒業生は「金の卵」といわれ、大企業が集団的に採用。農村の働き手の中心だった壮年男子まで都市へ出稼ぎに出かけたため、農業は、じいちゃん・ばあちゃん・かあちゃんの「3ちゃん農業」が一般的になりました。

いっぽう目を世界に向けると、東西の冷戦が衝突しました。昭和37年10月に起こった「キューバ危機」は、世界中を震撼させました。3年前に成立したカストロの革命政府にソ連が船で核兵器を持ちこもうと、ミサイル基地をつくっていることが、空からの偵察機の航空写真で確認されたのです。もし出来てしまえば、キューバ西部からフロリダ半島まで200kmしか離れていないため、アメリカには防御の方法がありません。10月22日、ケネディ大統領は「キューバへ武器を運べぬよう、交通遮断を行う」と海上封鎖の声明をだしました。さらに、「航行中のソ連船が停船命令を拒否すれば撃沈する」といい、もしこれが起きれば核による世界戦争となり、地球滅亡の危機となります。ケネディ米大統領が、ソ連に対し「24時間以内にミサイルを撤去するか、もしくは戦争か」とせまると、フルシチョフ首相は、アメリカのキューバ不可侵を条件に、ミサイルの撤去と国連による検証を提案。ケネディが海上封鎖を解除することを言明したのは、6日後の28日のことでした。





このキューバ危機回避のあと、ケネディとフルシチョフに友好ムードが高まり、翌昭和38年8月5日に、イギリスを含めた「部分的核実験停止条約」(大気圏内、宇宙空間および水中における核兵器実験を禁止する条約)に調印をしました。これには米ソ両国とも、猛反対する人たちがたくさんいましたが、両首脳は核戦争が起こらないようお互いに協調することを誓い、冷戦状態をなんとか収める外交努力をしたことは、大いに評価されるところでしょう。

ところが、翌年の東京オリンピックの中継準備として同38年の11月22日に、日米間にテレビ宇宙中継実験放送が行われて成功したものの、その一報がなんと「ケネディ大統領暗殺」という衝撃的ニュースでした。テキサス州ダラス市内をオープンカーでパレード中、何者かに狙撃されたのでした。FBIと地元警察は、ただちにオズワルドを容疑者として逮捕するものの、2日後には容疑者も護送中に射殺され、事件の真相は不明のままとなりました。





この年に特筆されるのは、アメリカの環境汚染の危険を告発したレイチェル・カーソンの『沈黙の春』が、全米のベストセラーとなったことです。この本は、春になっても鳥の声が聞かれないのはなぜ? という疑問から、DDTなどの農薬が自然を破壊している実態を4年にわたる厖大な資料の検討と調査に基づいて著したもので、大統領の科学諮問委員会もこの内容を評価して危険な農薬禁止につなげました。のちに、カーソンに刺激された作家の有吉佐和子が『沈黙の春』の日本版ともいえる『複合汚染』(1974年)を著し、ベストセラーとなっています。

高度成長の光の裏側にある影の部分として、日本でも、海や河川の汚染が問題になり、特に水俣病・四日市ぜんそく・イタイイタイ病の報道がされはじめたのもこの時代からでした。





メンバーの植田康夫氏が最近、現代の出版界を読み解く3部作の最終版「出版の冒険者たち。活字を愛した者たちのドラマ」を上梓されました。ポプラ社、二玄社、小学館、大修館書店、冨山房、暮しの手帖社、農山漁村文化協力会の7社を取材した力作で、「雑誌は見ていた。雑誌ジャーナリズムの興亡」「本は世につれ。ベストセラーはこうして生まれた」に続く完結編です。

そこで今回は、植田氏にこの本が生まれたいきさつを語っていただきました。特に、思い入れの強かったポプラ社に力点がおかれ、終戦後まもなく世田谷の4畳半の部屋で一人の青年と小学時代の恩師との出会いから生まれたこと、苦境に陥ると書店回りを積極的に行い、売り込むだけでなく市場の情報を集めて出版企画につなげたこと、図書館が整備されると聞くと図書館に参入するための本づくりをし、2002年に「総合的な学習の時間」ができるという情報から「ポプラディア」という百科事典を作りあげて大成功をおさめるなどの話を語っていただきました。



「参火会」5月例会 参加者

 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2016年5月2日月曜日

第23回「参火会」4月例会 (通算387回) 2016年4月19日(火) 実施

臨時会 「東日本大震災 被災地を巡って……」

2011年3月11日におこった「東日本大震災」から5年が経過しました。
この大震災は、日本人とくに東北・関東に住む私たちにとっては、一生のうちでも、最も強烈な体験であり、印象に残る大事件のひとつだったと思われます。

当日、リポートしてくださったメンバーの山本明夫氏にとっても、人一倍関心のあるテーマで、だからこそ、発生から2年半後、3年後、5年後の今回と、3度にわたって被災地の三陸・福島訪問という行動をおこされたのでしょう。

そこで今回は、会場での山本氏のリポートを再現していただきながら、特に訴えたいこと、現地を訪問しなくてはわからないこと、今後も被災地を見つめ続けることの大切さなどをつづってもらいました。





「東日本大震災 被災地を巡って……」 山本明夫氏 (71文新卒)

2011年3月11日には、私は赴任先の宮崎市にある大学研究室でテレビの国会中継を聞いていました。委員会室が大きく揺れる様子が写しだされ、緊急地震速報のチャイムが聞こえたため、急いで録画を始めました。

まず皆さんに見ていただくのが当日の津波の様子を伝える映像です(15分間)。
中継映像を見つつ鳥肌が立ち背筋が寒く震えたのを、つい最近のことのように覚えています。

次に、被災地の中で私が関心を持って訪れている女川(宮城県)、釜石(岩手県)、富岡町(福島県)の震災後の5年間の映像を見ていただきます(11分間)。





こうした被災地への訪問を続けていると、復旧・復興の様子がそれぞれの場所で違っていることがわかります。その中で、2013年秋に訪れて以来疑問に思っていることは“土地のかさ上げ”と“防潮堤”の復旧のあり方です。

ふたつとも国の取り組みはとても早いものでした。災害列島日本の政府は、こうした事態への対応に慣れているのかもしれません。しかし現地に入ってみると、「大津波被害をこれで本当に防げるのか?」という疑念が湧きあがってきました。そして、地元の人たちから話を聞くとその置かれた立場によって人さまざまな反応が返ってきます。人命を第一に思う人、生活基盤を優先する人……。

復旧を急ぐ官庁の担当者たちは、そうした人々の声を十分に聞いているのか? 多分そうではなく、過去の経験則を基に復旧工事を急いでいるのだろうと推測できるのです。

市街地再建にしても、まず道路がつき電柱が立ちます。しかし訪れるたびに移設が行われているのに気付きます。建物はすべて流されているのですから、幹線の上下水道や電気・ガスなどのインフラの整備をまず整えてから道路をつければ、掘り返しなどの二度手間が省けると思うのですが、そうはなっていません。荒涼とした土地に電柱が林立する様子は「住む人が復旧の中心に居ない」という印象を強く受けました。

防潮堤についてお話しします。国は海岸線400kmにわたって7~10mを超えるものを整備するとしています。しかし既に多くの関係者から指摘のある通り、「海沿いでありながら海の見えないところに住まうのか?」「今回も海が見えないために住民の避難が遅れた」などの問題が横たわったままになっています。

これに対して上智の卒業生でもある細川護煕さんや元横浜国大教授の宮脇昭さんなどが設立した「森の長城プロジェクト」は、震災瓦礫を海岸線に沿って高さ5m程に積み上げて盛り土をし、そこにドングリの生る常緑樹を植えて防潮堤の代わりとするものです。松などは根を横に張るため津波の直撃を受けると横に倒れてしまいますが、ドングリの生える植物の多くは根を縦に深く張るため津波の直撃を受けても倒れずにしなるようにして力を弱められると見られています。仙台市の南の岩沼市や福島県の南相馬市などで3年前に植えられた50cmほどの苗は地元の高校生や関東地方のボランティアの手入れもあり、すでに人の背丈を超えるほどに成長しています。

この森の長城は、単に津波を和らげるだけでなく公園としての役割も果たして、景観に溶け込んだ自然豊かな海辺のリクリエーションゾーンとして期待されています。こうした運動が、なぜ国の施策として実施されないのか不思議に思います。

また、女川町では浸水地域のかさ上げとともに新しい街づくりに着手しています。ここで注目するのは単なるかさ上げではなく、港から奥に向かってなだらかな傾斜地を造成したことです。日常では女川駅や商店街から海が見られますが、いざという時にはこのスロープを上って高台に避難することになります。日常性と減災対策の両立を取り入れた復興事業だと思います。かさ上げに用の土砂を削り取って出来た土地は住宅地として整備されると聞きました。

被災地を巡って感じることは、避難した人たちの帰還が進んでいないということです。地元の商業者は、なんとかして元の状態に戻したいと歯を食いしばって再建に取り組んでいるようですが、肝心の住民の減少が大きなネックとなっています。夜などは本当に「火の消えた町並み」で、被災地域の厳しさが迫ってきます。

私たち遠方の者たちには「千年に一度の未曾有の災害」を受けた人々に何ができるのか問われていると思います。さりとて妙案も出てこず、私としては被災地を巡ることによって人々の思いを聞き、声を掛けるとともに地元の旨いものをいただくことによって、多少とも力添えになるのではないかと考えており、今後も訪問を続けようと思っています。
 


「参火会」4月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 深澤雅子 文独1977年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2016年3月16日水曜日

第22回「参火会」3月例会 (通算386回) 2016年3月15日(火) 実施

「現代史を考える集い」18回目  昭和35・36年 「安保闘争と高度成長」





今回は、NHK制作DVD18巻目の映像──
岸首相訪米・新安保条約に調印、自民党が新安保条約と会期延長を単独強行可決、安保阻止統一行動、ハガチー事件、全学連が国会突入し東大生樺美智子死亡、新安保条約自然承認、浅沼社会党委員長刺殺される、三井三池大争議、チリ地震三陸海岸に大津波、浩宮徳仁親王誕生、皇太子夫妻がアメリカ訪問、オリンビック・ローマ大会開催、池田勇人内閣成立、所得倍増計画発表、池田・ケネディ会談、第1回日米経済委員会開催、ソ連工業見本市にミコヤン副首相来日、北陸に豪雪、大阪釜ヶ崎で暴動、嶋中事件、三無事件(池田内閣要人暗殺計画発覚)、ソ連がヴォストーク1号打上げ成功、シベリア墓参団出発、全国一日一斉休診、小児麻痺大流行で生ワクチン輸入、文部省高校生急増対策発表、大相撲・柏鵬時代へ、日紡貝塚バレーボール部がヨーロッパ遠征で24戦全勝、余暇ブーム……など約50分を視聴後、新安保条約を中心に話し合いを行いました。






 「この時代の概要」

昭和35年1月19日、岸信介首相は、ワシントンでアメリカとの「安保改定(新安保)」の調印式に臨みました。前年10月までに、藤山外相とダレス国務長官とのあいだでの下固めもあり、ほぼ問題なく調印を終えました。新安保が以前のような、アメリカが日本防衛の義務のない、また期限もない、アメリカ側に都合のよいものでなく、「極東における国際平和・安全の維持、共通の危険に対処するため、日本は、軍隊を持たない・戦争はしないという憲法の制約の中で、アメリカに協力する。アメリカは日本を完全に守る」というもので、期限についても「当初10年の有効期間(固定)が経過した後は、1年前にどちらかが予告することにより、一方的に破棄できる」とし、過去にあるさまざまな条約改定と比べても、遜色ないものでした。

ところが、批准(承認)のために2月初めからの議会で、与野党の対決がはじまると、事態は一変。その後の半年間は、国論は真っ二つに分かれて日本社会を揺さぶりつづけ、まさに「安保」「安保」の半年間となりました。そのきっかけは、日米が協力しあう地域「極東」(far east)は、どの範囲をさすのかというものでした。「朝鮮半島と日本だ」「中国と国民政府(台湾)も入る」など、さまざまな議論が噴出すると、岸首相は「フィリピン以北、日本周辺」(2月8日答弁)、「北千島は含まず、金門島・馬祖島(台湾の中国よりの島)は範囲」(2月10日答弁)に対し、自民党内非主流派は「金門・馬祖は除外せよ」と、自民党内も一枚岩ではなくなってきました。

いっぽう、前年3月には、社会党と総評(連合の前身)を中心に、原水爆禁止日本協議会、憲法擁護国民連合など134団体が加盟する「安保条約改定阻止国民会議」(国民会議)が結成されていました。これらの団体は、新安保が成立すれば、日本側は自衛隊の増強を強いられ、極東有事の際には自衛隊が在日米軍と協力して、アメリカが引き起こしたアジアの戦争に日本も協力せざるをえないことになる。日本人は、再びアジア人と戦火を交えていいのか、さらにそれが日本を核戦争にまきこむ可能性だってあるという考えが共通の認識でした。この運動は、同年4月の第1次統一行動では全国で1万人ほどだったのが、6月の第3次統一行動では10万人に達すると、新聞テレビのマスコミでも積極的に報道されるようになり、大学人や文化人の啓蒙活動も活発化、さらに12月には、全国学生自治会総連合(全学連)が安保闘争に加わりました。

国会では、先の「極東」の範囲などをめぐり、社会党の猛反対など議論ははてしなく続きます。議論が重なるごとに条項の不備が指摘されてもめ続けるうち、6月19日に新安保の日本批准を見込んで、アメリカのアイゼンハワー大統領(アイク)の訪日が決定しました。条約というのは、衆議院を通過させれば、参議院の議決がなくても、30日後には自然成立することが憲法61条に規定されています。そのため岸首相は、5月19日までに衆議院を可決させなくてはなりません。しかし議会は紛糾して、そんな状況にならないまま5月19日をむかえました。一刻も早く国会審議を打ち切ろうとする岸内閣に対抗し、野党は、衆議院議長清瀬一郎を議長室におしこめて審議をさせない作戦。当日夜10時過ぎ、自民党は本会議開会を知らせる予鈴を鳴らして、安保特別委員会を開きました。そして、野党欠席のまま政府と与党だけで委員会を通し、本会議を開くために警察官500人を導入して、議長室前でスクラムを組む野党議員一人ひとりを排除して議長を衆議院議長席に座らせ、この重要法案をわずか数分で強行採決させたのでした。





この暴挙に、マスコミ全紙は「議会制民主主義の危機」と問題化し、総評は岸内閣を「ファッショ的」と断定、国民会議は「30日以内に国会解散を勝ち取れば新安保批准を阻止できる」と最後の盛り上げをはかり、全学連ら学生や一般市民までがいっしょになって、未曾有のデモ隊が国会議事堂を取り囲みはじめ、戦場さながらにした安保騒動が始まりました。さらに、雑誌「世界」に掲載された清水幾太郎の「今こそ国会へ請願のすすめ」という論文が話題になりました。全国の国民が1枚の請願書持って議事堂を取り巻き、その行列が途切れなかったら、新安保の批准を阻止し、議会政治を正道に戻せるというものでした。これが大評判となって、5月から6月にかけて全国各地の人々が毎日数万人の請願デモが国会へ押し寄せました。特に条約自然承認直前の6月15日から18日にかけては、全学連や労働組合のデモ隊が議事堂を取り囲みました。特に6月15日の夜には、構内に突入したデモ隊と警察官が激突。東大生樺美智子が死亡した他、重傷43名を含む数百人が負傷する大惨事となりました。後でわかったことですが、6月15日に岸首相は、赤城防衛庁長官に自衛隊の出動を打診、赤城は「戦車や機関銃を装備する自衛隊が出動すれば、デモは革命的に全国へ広がる(内乱の危機)」と拒否。そのため、岸は16日にアイク訪日を断る決断をせまられ、閣議決定されました。こうして、6月23日、目黒の外相官邸で批准書が日米で交わされ、その後まもなく岸首相は退陣を表明したことで、安保騒動は一気に終焉しました。

昭和35年7月19日、自民党内の総裁戦に勝利した池田勇人が首相になると、「国民の所得を10年で倍増させる」と打ち出したことで、大風呂敷と揶揄されながらも、12月27日に閣議決定されました。まさにこれが、日本の高度成長の幕開けとなったのでした……。

なお、この時代になると、ほとんどの参加者は高校生以上となり、中には大学を卒業して社会人になった人もいて、それぞれの立場から安保騒動とどう向き合ったかが語られる、印象深い会となりました。



「参火会」3月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒