2017年4月19日水曜日

第31回「参火会」4月例会 (通算395回) 2017年4月18日(火) 実施

「現代史を考える集い」 25回目   昭和49・50年「高度成長の終焉」





今回は、NHK制作DVD25巻目の映像──
狂乱物価とインフレに悲鳴をあげる主婦たち・東京の三菱重工ビル爆破される(以後企業爆破事件続く)・原子力船「むつ」放射能もれ発見・サリドマイド訴訟和解成立・伊豆半島沖地震・台風16号襲来し東京多摩川の堤防が決壊・元陸軍少尉小野田寛郎ルパング島で救出される・佐藤前首相がノーベル平和賞受賞・モナリザ展開催・北の湖が史上最年少で横綱に・巨人軍の長島茂雄引退・フォード大統領来日・田中首相辞意表明・三木武夫内閣成立・南ベトナム政府軍無条件降伏・三木首相訪米し首脳会談・大阪高裁が大阪空港公害訴訟で住民側全面勝訴の判決・沖縄海洋博開催・新幹線が博多まで開通・国際婦人年世界会議がメキシコで開催・日本女子登山隊エベレスト初登頂・小林則子「リブ号」で太平洋単独無寄港横断・沢松和子ウインブルドンテニスでダブルス優勝・エリザベス女王来日・天皇と皇后が訪米ほか、約48分を視聴しました。

その後、この時代を振り返る話し合いをする予定でしたが、「ソフィアタワー新6号館」に移転した「ソフィアンズクラブ」のルールが大幅に変わり、、その説明や、新ルールにどう対応していくべきか、これからの「参火会」はどうあるべきかについての話し合いに終始しました。そこで、この時代についてのあらましや感想は、酒井義夫が以下に記述しましたので、参考にしてください。


「この時代の背景」

昭和48年10月、突如としておこった「石油ショック」から、49年1月には原油価格は約4倍の値上がりをし、冬を迎えてガソリン代や灯油の大幅値上げなど、物価の高騰、物不足、インフレが深刻化しました。物価高騰は、2月にピークに達して、卸売物価・消費者物価ともに前年同月比30%を越えるという異常事態となりました。戦後まもない時期をのぞけば、戦後最悪の状況となりました。ここ10数年間という長期にわたって、前年比10%もの成長をとげてきた日本経済も、一転して不況の真っただ中に陥ってしまったのです。

「日本列島改造論」を表看板にした田中角栄総理に大いに期待した国民も、依然として放漫な財政支出をしようとする姿勢に批判を浴びせるようになり、田中内閣の支持率は急速に低下していきました。同年7月、おりからの参議院選挙に命運をかけた田中は、ぼう大な選挙資金を使って全国を遊説し、全国区にタレント候補ら35人の候補者を立て、企業グループや有力会社などを割り当てる「企業ぐるみ選挙」という新戦術を行いました。しかし結果は、自民党の惨敗に終わり、参議院の与野党の勢力は、ほぼ伯仲することになりました。露骨ともいえる金権選挙と、強引な行動に怒り、自民党内の田中批判は、椎名副総裁を会長とする調査会にゆだねられました。

いっぽう、田中総理が金権選挙に使った資金は、500億円とも1000億円ともいわれ、この資金はどこから捻出したものなのか、この出どころを解明した人物が現れました。それが、10月10日に発売された「文藝春秋」11月号に掲載された「田中角栄研究━━その金脈と人脈」で、ジャーナリストの立花隆が執筆したものでした。「ユーレイ会社」を設立しては土地を買い占め、タイミングよく売りぬくしくみ、巧妙な政治献金ルートのからくりを、一つずつていねいに調べ上げたものでした。





この記事が掲載された直後に開かれた、日本外国特派員協会での田中総理講演会で、外国人記者から質問が集中し、いっきに大ニュースとなります。以後、マスコミと野党の集中砲火を浴びて政局は大混乱となり、11月26日に辞意を表明すると、まもなく椎名調査会は三木武夫を後任総裁に指名しました。こうして、田中内閣は12月9日に総辞職して2年5か月にわたる政権の座を降りたのでした。三木は、「クリーン三木」といわれるように、その政治姿勢は清潔で、田中政治を否定するかのように金のかかる政治を全廃するという政界浄化を看板に掲げました。

日本経済は、昭和50年に入ると、「石油ショック」に対処するための企業の動きが活発になってきました。企業の減量経営も本格化し、銀行からの借入金をできるだけ返済することによって金利負担の軽減をはかりました。また、人件費の節約、残業時間のカット、パート労働者の削減、配置転換、やがて希望退職者を募るなど、いちだんと厳しいものになっていきます。

いっぽう工場では、コンピューター技術を利用した(ME…マイクロエレクトロニクス)化やロボット化を急速に進展させていきます。これまでの鉄鋼や石油産業といった重産業に対し、半導体など新技術によるソフト産業に力を投入し、世界に先駆けて次々と新商品を登場させていきました。いわゆる情報化社会の出発で、コピー機、ファクシミリ、ワープロなどを多くの企業が採用、パーソナル電卓、家庭用VTRもこのころに普及させています。

今や、私たちの生活に欠かせない「コンビニ」も、昭和49年5月に、イトーヨーカドーと提携したセブンイレブンの1号店の開店からスタートしました。年中無休で長時間営業を特色とし、利便性を最大限に追求したミニ・スーパーは、共働き世帯や単身者、若者の生活スタイルにマッチしたのでしょう。以後、国民の生活そのものを全体的に変えていきました。後続のダイエー系のローソン、西武セゾン系のファミリーマートとともに、都市生活には欠かせない存在となっていきました。

あらためて昭和49年・50年という2年間を考えるとき、「石油ショック」といった外部的な要因により、たちまち窮地に立ってしまうことを知った日本人が、高度成長の水膨れ体質を反省し、やせガマンをしながら、「新しく生きる道」を探って、その方向性を見つけ出しかけた時代だったような気がします。

なお、当日は、これまでのルールが一変したため、その対応をどうしたらよいかに酒井の頭の中は終始混乱、撮ったはずの会場写真が見当たらず、出席したくれた皆さまに深くお詫びを申し上げます。


「参火会」4月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内  光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2017年1月18日水曜日

第30回「参火会」1月例会 (通算394回) 2017年1月17日(火) 実施

「現代史を考える集い」 24回目  昭和47・48年 「列島改造」とオイルショック





今回は、NHK制作DVD24巻目の映像──
沖縄復帰・沖縄県発足、佐藤首相退陣表明、佐藤内閣総辞職・田中角栄内閣成立、田中首相中国訪問、北京で日中国交正常化の共同声明、上野動物園パンダ公開、妙義山中で連合赤軍最高幹部永田洋子と森恒夫を逮捕、連合赤軍軽井沢の浅間山荘に籠城(浅間山荘事件)、大阪千日デパートビル火災、北陸トンネルで列車火災、元日本兵横井庄一グアム島で発見、飛鳥高松塚古墳で極彩色壁画発見、冬季オリンピック札幌大会開幕、ミュンヘンオリンピック開会、西独ミュンヘン五輪にアラブゲリラ侵入、勤労順法闘争中の上尾駅で乗客1万人暴動、水俣裁判患者側勝訴、衆議院本会議で水銀・PCB問題で緊急質問・政府はPCB中止を言明、日航機オランダ上空でハイジャックされる、
韓国新民党元大統領候補の金大中氏が東京で誘拐される、熊本の大洋デパート火災、東京渋谷駅のコインロッカーから嬰児死体発見、石巻市の菊田医師新生児を実子として斡旋の事実を公表、江崎玲於奈博士ノーベル物理学賞受賞、大相撲訪中団出発、日本シリーズで巨人V9、第40回ダービーで常勝のハイセイコーを破ってタケホープ優勝、OAPEC緊急閣僚会議で石油の生産削減・供給制限決定ほか約54分を視聴後、この時代をふりかえる話し合いをいたしました。





「この時代の背景」

昭和47・48年は、戦後史の中でも特筆される2年間でした。まずあげなくてはならないのは、歴史的といってもいい「沖縄返還」を花道に、日本の内閣史上7年8か月という最長記録を続けた佐藤首相が引退したことでしょう。

佐藤は、池田勇人に代わって昭和39年11月に初めて組閣したときから、「沖縄返還」を最大の政治課題にあげました。40年1月に訪米した時、当時のジョンソン大統領に沖縄返還の申し入れをし、8月に現職首相として初めて沖縄入りして、「沖縄の祖国復帰がない限り、日本の戦後は終わらない」と言明しました。こうして、43年から「沖縄返還に関する日米協議」が始まり、44年の佐藤・ニクソン会談で、47年の「核抜き本土並み返還」が決まって、47年5月15日、沖縄は27年ぶりに日本復帰したのでした。

その間には、さまざまな難題がありました。その焦点になったのは、アメリカの持つ核兵器 (昭和40年前後に800発前後沖縄に存在) の扱いをどうするかということでした。佐藤は、「核兵器を持たず、作らず、持ちこませず」の非核3原則を打ち出し、なんとか日米共同声明に盛り込むことに成功しました。(佐藤は49年にノーベル平和賞を受賞するものの、死後に核持ち込みの密約が発覚している)

こうして佐藤首相が引退すると、自民党内の福田赳夫VS田中角栄両陣営による激しい総裁選争いの末、47年7月に田中角栄内閣が誕生しました。田中はわずか就任2か月後に、懸案だった「日中国交回復」を実現しました。日中の共同声明で 「日本は中国を唯一の合法政府として承認」したため、日本は台湾の国民政府との国交を断絶、民間での交流だけが残されることになりました。(なお、6年後の昭和53年、「日中平和友好条約」が締結され、経済や文化交流面でも緊密化)

また田中は、総裁選のさなかの6月に、「日本列島改造論」を発表しました。その主旨は、太平洋岸に集中している工業地帯を日本全国の拠点都市に分散し、人口20万~40万の中堅都市を育成して、これらの都市を新幹線と高速道路で結ぶというもので、これが総理就任後の大方針となりました。

新潟の農村出身で、これまでの総理が東大を中心に大卒がほとんどだったのに対し、高等小学校(中学に相当)卒の田中が、最高権力者についたことで「角栄人気」はかつてないものになりました。その庶民的な人柄から「庶民宰相」とか「今太閤」(現代版の豊臣秀吉)と呼ばれ、同時に「日本列島改造論」は90万部の大ベストセラーとなって、「列島改造ブーム」を引きおこしました。田中首相は、私的諮問機関として70人の委員から成る「日本列島改造問題調査会」を発足させ、列島改造に走りだしたのです。

しかし、すでに日本を取り巻く情勢は変わっていました。日本経済の高度成長と個人消費拡大を前提とした改造計画は、物価の暴騰、インフレの加速を促すものでした。さらに翌48年10月6日、イスラエルとエジプト・シリア間で勃発した第4次中東戦争は、イスラエルに武器を補給しているアメリカとアラブ諸国の対立に発展します。

そして10月17日にOAPEC(アラブ石油輸出機構)は、石油を政治交渉の武器とする戦略を発表、原油生産の削減と、アメリカなどイスラエル支持国(日本も含め)への石油割り当てを減少させることを決定しました。24日には、サウジアラビア国営石油会社が70%の値上げを日本に通告したのをきっかけに、他の大手国際資本がいっせいに「日本向け原油の供給削減」を通告してきました。石油消費量の99.7%を輸入に頼り、安い石油を背景に発展してきた日本経済は大打撃を受けることになったのです。

こうして、アラブ産油国のとった石油戦略は日本を直撃。大商社の「買い占め」「売り惜しみ」が問題になったところにおきたこの「石油ショック」は、11月には、トイレットペーパー買いに殺到した主婦らが売り場に殺到し、老女が大ケガをする事件までおこりました。政府は、石油緊急対策要綱を決め、マイカーの自粛、企業の石油・電力消費10%削減などを呼びかけるいっぽう、トイレットペーパーは充分にある、メーカー出荷価格1パック140円に凍結を発表するものの、買いだめは砂糖・洗剤・塩などにおよび、全国各地で同様なパニックがおこりました。

12月になると政府は、「狂乱物価」といわれる異常なインフレ抑制をはかろうと、「石油需要適正化法」「国民生活安定緊急措置法」という「石油緊急2法」を公布・施行します。しかし、街からネオンサインが消えて盛り場の店も早じまい、テレビも11時に終了するなど、「じっとガマンの子であった」(ボンカレーのコマーシャル)という [暗い時代] の始まりでした。もはや「列島改造」など夢物語でしかなくなっていたのです。





会の後半は、前回に引き続き、メンバーの酒井猛夫、深澤雅子さん、谷内秀夫氏の「近況報告」が行われました。 (酒井義夫記)


「参火会」1月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内  光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 深澤雅子 文独1977年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2016年12月14日水曜日

第29回「参火会」12月例会 (通算393回) 2016年12月13日(火) 実施

「現代史を考える集い」 23回目  昭和45・46年 「繁栄と公害の中で」





今回は、NHK制作DVD23巻目の映像──
第3次佐藤内閣成立、政府は日米安保条約の自動延長を声明、日本万国博覧会(大阪万博)開幕、日本製テレビにアメリカがダンピングと認定、佐藤・ニクソン会談で繊維交渉の再開を約束、富士市田子の浦ヘドロ追放の住民抗議集会、東京に光化学スモッグ公害発生、大阪市天六の地下鉄工事現場でガス爆発、赤軍派が日航機「よど号」をハイジャック、瀬戸内海で観光船「ぷりんす」乗っ取り事件、三島由紀夫割腹自殺、日本山岳会登山隊エベレスト登頂、初の国産人工衛星「おおすみ」打ち上げ成功、東京で歩行者天国始まる、沖縄返還協定調印、日中国交回復促進議員連盟訪中、周恩来中国首相が美濃部都知事と対談し保利書簡を信用できぬと批判、中国の国連加盟が決定し国府は国連脱退声明、成田空港用地強制代執行開始、新潟地裁が阿賀野川水銀中毒訴訟で原告に勝訴判決、環境庁発足、新潟県の海岸でリベリアのタンカー座礁、東亜国内航空「ばんだい」函館郊外に墜落、岩手県上空で全日空機と自衛隊機が衝突、連続女性殺人犯大久保清逮捕、横綱大鵬引退、天皇・皇后ヨーロッパ7か国親善訪問に出発、米のドルショックにより東証ダウが史上最大の暴落・為替市場変動相場制へ移行ほか約50分を視聴後、この時代をふりかえる話し合いをいたしました。





「この時代の背景」

前回の昭和43年・44年の2年間は、「スチューデント・パワー爆発の時代」と総括し、[やがて、全共闘内部の対立と戦術の過激化から、一般学生や市民の支持を失い、「革マル」(革命的マルクス主義派)、「社青同」(社会主義青年同盟)、超過激な「赤軍派」など各派に分裂してどんどん少数になり、運動は鎮静化していった] と記しました。

ところが45年に入ると、3月31日、赤軍派の9人が、日本航空の「よど号」を乗っ取る事件が起こりました。日本の航空史上初のハイジャックで、富士山の上空を飛んでいたとき、犯人グループは機長に日本刀を突きつけて、北朝鮮へ行くように要求。機長は、燃料不足を理由にこれを拒否し、福岡空港に着陸、給油後に病人や老人・子どもら23人を降ろしてから5時間後に離陸します。北朝鮮領内に入るものの、対空砲火やミグ戦闘機の追跡にあって南下し、韓国空軍機の誘導で韓国の金浦空港に着陸しました。平壌空港に着いたように偽装するものの、気づかれてしまいます。犯人たちは3日間機内に立てこもっている時、交渉に当たった山村新治郎運輸政務次官が身代わりの人質になることで乗客全員が解放され、4月3日「よど号」は平壌に向かうことで終結。犯人たちは亡命状態になり、現在に至っています。

こんなハラハラ・ドキドキするニュースがあったいっぽう、昭和45年のニュースといえば、「大阪万博」のことを思い出す人が多いでしょう。3月14日から9月13日まで183日間に万博史上最大の6421万8770人が入場したといいますから、日本国民の半分以上が出かけたはずです。まさにこの「大阪万博」は、昭和元禄の打ち上げともいえるものでした。アポロ11号が持ち帰った「月の石」など宇宙展示でアメリカ館やソ連館に長蛇の列が出来たばかりか、日本の大企業が先端技術を競って展示し「経済大国日本」を強烈にアピールした大イベントでした。

また45年は、70年安保の年でした。あの騒然とした60年安保が何もなければ「自動延長」されることになっており、政府は早々と自動延長の方針を伝えるいっぽう、学生運動が再燃して猛反対が起こり、「60年安保の再現」を予想する声さえありました。ところが、自動延長される6月23日は、反対統一行動の集会に全国各地に77万4千人が集まったにもかかわらず、多少のゴタゴタはあったものの、あっさり自動延長されました。

こんな日本の状況に、怒りを現したのが作家の三島由紀夫でした。「日本の経済は復興したが、敗戦で喪失した日本人の伝統や文化や精神はなんら復興することがない。アメリカに依存するばかりで主体性がなく、金を儲けるだけでいいのか。こんな腑抜けでいいのか」……と。

11月25日のことでした。三島は、主宰する「楯の会」のメンバー4人を引き連れて自衛隊市ヶ谷駐屯地の「東部方面総監室」に乗り込み、益田陸将を監禁し、「檄」と題する6項目の要求書を突きつけました。止めに入った自衛隊幹部ら8名は切りつけられて負傷。三島は庁舎前に、自衛隊員を集め、バルコニーから決起を促しました。

「自衛隊諸君、だらしのない政府に対しクーデターをおこせ。日本精神はどこにあったのか」と叫び、憲法改正・天皇親政の復活を訴えたのです。ところが、隊員たちからは拍手も賛同もないばかりかヤジられたことから、5分後に三島は、総監室にもどり、制服をぬぎ、正座して短刀で切腹します。隊員の森田必勝らが介錯し、森田も三島の後を追って自決したのでした。これが、「三島由紀夫割腹自殺事件」のあらましです。





昭和45・46年を振りかえる時、高度経済発展の代償ともいえる「公害問題」に、政府が重い腰をあげ、ようやく本格的な対策が講じられるようになった年でもありました。

そのころまでに、「4大公害病」というのが発生していて、訴訟がおこされていました。

① 熊本水俣病 (魚を介した重金属中毒で、新日本窒素水俣工場から出るメチル水銀が原因。昭和35年までに死者42人。44年に原告138人が訴訟・判決48年原告勝訴)
② イタイタイ病(富山県神通川流域で、全身の骨がボロボロになる症状。三井金属神岡工業から排出するカドミウムが原因。昭和43年原告33人が訴訟・判決47年原告勝訴)
③ 新潟水俣病 (阿賀野川有機水銀中毒「第2水俣病」といわれ、昭和電工の工場排水が原因。昭和42年原告76人が訴訟・判決46年原告勝訴)
④ 四日市ぜんそく(石油化学産業育成のため、四日市市には石油コンビナートや水力発電所を次々に建設。大気汚染顕在化して気管支炎患者が続出して、45年までに40人以上の死者。昭和42年原告17人が四日市石油など6社に対し訴訟・判決46年原告勝訴)

そして45年の7月18日、東京に光化学スモッグが発生し、杉並の高校女生徒40数人が目やノドの痛みを訴え救急車で運ばれたほか、都内には同様な症状を訴える人が続出しました。「新型複合汚染」で、自動車の排気ガスの中の窒素酸化物が紫外線で化学反応をおこしてオキシダント(強酸化性物質)となり、これが人間の目やノドを痛めることが判明したのは、大きなショックでした。

また、8月11日には富士市公害対策市民協会が、田子の浦ヘドロ公害を大手4製紙会社と知事を告発します。

これらがきっかけになって、「公害国会」といわれる集中審議が行われ、3年前に成立していたもののほとんど機能していなかった「公害対策基本法」大気汚染・水質汚濁・騒音・振動・地盤沈下・悪臭を対象としていた法律の強化・改訂を行いました。

翌46年7月1日には、「環境庁」を誕生させました。厚生省を中心に11の省庁から集められた500人の職員で発足したものでした。初代長官大石武一の初仕事は、尾瀬の自然保護で、「尾瀬・只見スカイライン建設計画」を中止させましたが、経済成長を重視する通産省や経済企画庁と対立。2001年に、環境庁は環境省に昇格するものの、この対立構造は今も続いています。

さらに、46年という年は、「高度成長の終焉を迎える年」だったことを付け加えなくてはなりません。アメリカは、ベトナム戦争介入による軍事費拡大、福祉予算の増加などで、深刻な財政赤字をかかえ、貿易収支も80年ぶりに赤字に転落する異常事態になっていったことが要因でした。

46年8月15日 ニクソン大統領は、金とドルとの交換の停止、10%の輸入課徴金などのドル防衛策を発表しました(ニクソンショック)。この措置は、対米輸出に依存していた日本経済を直撃し、8月28日からは、戦後まもなく1ドル360円に固定されていたドルが、変動相場制に移行し、12月18日にワシントンのスミソニアン博物館で開かれた「スミソニアン合意」により、一挙に円は16.88%も切り上げられ、1ドル308円に確定されます。不況の中での円高を強いられた各界は、「2年分の利益を失う」(造船)・輸出回復の見込みなし」(繊維)など、多くの業界が悲鳴をあげました……。


会の後半は、前回に引き続き、メンバーの向井さん、増田夫妻、竹内氏の「近況報告」が行われました。



「参火会」12月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2016年11月17日木曜日

第26回「参火会」11月例会 (通算392回) 2016年11月15日(火) 実施

「現代史を考える集い」 22回目  昭和43・44年 "昭和元禄"





今回は、NHK制作DVD22巻目の映像──
小笠原諸島日本復帰、第8回参議院選挙タレント候補大量当選、皇居・新宮殿落成式、明治百年記念式典、川端康成ノーベル文学賞受賞、オリンピック・メキシコ大会開催、米空母エンタープライズ佐世保に入港、王子・米軍野戦病院設置反対デモ、国際反戦デ―・新宿で大乱闘、イタイタイ病・水俣病など公害病と認定、日本初の心臓移植手術、飛騨川バス転落事故、有馬温泉の旅館火災、金嬉老事件、3億円強奪事件、日大20億円脱税から紛争に、東大医学部闘争(全学無期限スト・入試中止・全共闘安田講堂占拠・機動隊突入)、新宿西口反対フォークソング集会、佐藤首相訪米・日米共同声明、原子力船「むつ」進水、チクロ使用禁止、米アポロ11号月面着陸、東名高速道路全線開通ほか約50分を視聴後、この時代をふりかえる話し合いを行いました。







「この時代の背景」

前回の昭和41年・42年を含め、今回の43年・44年も、すべて佐藤栄作内閣の時代でした。昭和39年(1964年)11月、東京オリンピックの閉会を待っていたかのように、病気辞任した池田勇人を引きついだ佐藤は、退任する昭和47年7月まで、7年8か月という日本の内閣史上最長の記録を作りました。

また、この期間は、昭和40年ごろの一時的不況はあったものの、経済成長率10%以上を毎年のように超え、昭和44年末には国民総生産額が62兆円に達して、ついにイギリスや西ドイツを抜いて、資本主義世界ではアメリカに次いで第2位となりました。「いざなぎ景気」に代わり「昭和元禄」が流行語になるほどでしたが、この好況持続の主要因となったのは、アメリカが主導するベトナム戦争の泥沼化による「ベトナム特需」によるものでした。

こうした急速な経済成長に伴って、農村の過疎化や都会の過密化が進み、交通難・住宅難・物価高・公害問題など、さまざまな矛盾が噴出してきました。これに対し政府は、池田時代からのバラマキ政策をとり続け、補助金や公共事業費を支出することによって、これらの矛盾から国民の目をそらそうとしました。また、赤字国債発行の連発で財政赤字を累積させて問題を後に残すなど、大きな禍根を残しています。

こんな高度成長のひずみに、都市住民の不満を背景とした昭和42年の統一地方選挙で、美濃部亮吉革新都知事の誕生など「革新自治体」の拡大につながりました。また、ベトナム反戦運動のさらなる高まりから、昭和43年に入ると、ベトナムへの北爆に参加するアメリカの原子力空母「エンタープライズ」の佐世保入港に対して学生や革新団体などは、激しい阻止闘争を巻きおこましました。

今回の昭和43年・44年の2年間は、「スチューデント・パワー爆発の時代」ともいわれています。「エンタープライズ」反対闘争に続き、王子野戦病院開設反対闘争(43年1~4月)、成田新国際空港反対闘争(42年11月~)、国際反戦デー新宿騒乱事件(43年10月21日)など、反日共系全学連が、これらの運動の中心となって、街頭や現地実力闘争を展開し、いちやく70年安保闘争の主役に躍り出ました。

警察発表では、43年末に全国115大学が紛争状態にあったといい、こんな学生による異議申し立てや反乱は、日本だけでなく、アメリカではベトナム反戦運動、フランスでは「5月革命」(43年5月・カルチェラタン闘争)という反政府運動をリードした他、西ドイツやイタリアなど先進資本主義国でもおこっていました。性格は異にするものの、中国の紅衛兵による「文化大革命」が、国家機構をマヒさせる事態を引き起こしていたのも、世界の流れと見るむきもあります。

日本の「学園闘争」の頂点に立ったのが、「日大闘争」と「東大闘争」でした。当時日大は、10万人の学生を擁する日本一のマンモス大学でしたが、学生の自治活動は、厳しく抑制されていました。それが43年4月に、東京国税庁の摘発によって、20億円の使途不明金が明らかにされると、鎮静を強いられてきた学生たちは、怒りを爆発させ、5月に全学共闘会議(秋田明大議長)を結成させて、学園民主化闘争を開始しました。大学当局との大衆団交を要求したり、各学部がバリケード・ストライキに突入すると、大学側に立って日本刀などで武装した体育会系学生の殴り込みや、再三の機動隊との衝突で数百人もの負傷者・逮捕者を出すなど、他の学園闘争にはない激しいものでしたが、少しずつ一般学生たちの支持を拡大させていきます。

9月30日の両国講堂での全学集会(団交)では、翌朝3時まで12時間にわたる数万人の学生の追及の前で、古田会頭以下、全理事が退陣を表明。これまでの対応を謝罪し、学生自治権の回復、体育会の解散などを約束しました。学生たちは「これで大学は正常化する」と喜んだものの、翌日佐藤首相は、「大衆団交」について「こんな集団暴力は許せない」と発言し、政治問題化します。そして10月3日、大学側は一転して約束を破棄、秋田議長ら指導者に逮捕状が出されました。翌年2月には機動隊を導入してストを解除し、ロックアウトを行い、学生たちから誓約書を取って授業を再開すると、運動は下火になっていきました。

「東大闘争」は、43年1月、「インターン制度」廃止にともなう「登録医制度反対」の医学部無期限ストが発端でした。これに対し医学部当局は3月に17人の学生の処分を発表します。その中の一人がそのころ東京にいなかったのに処分されるという「事実誤認問題」がおこると、学生側は態度を硬化させ、数十人が安田講堂を占拠しました。すると6月、大学当局がこれを排除するため機動隊を導入したことから、紛争はいっきに全学に拡がり、10月には全学部がストに入るという開学以来初となる異常事態となりました。

紛争は長期化し、大量留年、入試中止が懸念されるようになると、事態収拾の動きがではじめ、44年の1月10日には、7学部の学生代表団と大学当局との交渉により、10項目の確認書が交わされました。医学部処分の撤回、大学運営に学生も参加などでしたが、政府はこれに強く反発、この年の入試は中止としました。また、この話し合いに参加しなかった全共闘系学生は、15日に安田講堂をバリケード補強するなど要塞化し、支援する他大学学生や労働者などが立てこもって対決色を強めていきました。





退任した大河内一男学長に代って加藤一郎総長代行は、何度も交渉を重ねたにもかかわらず、話し合いに応じない学生たちの抵抗にしびれを切らし、警察に占拠排除を要請します。こうして1月18日午前7時、機動隊8500人が出動してバリケードの撤去を開始し、工学部・医学部・法学部などにガス銃の一斉射撃・放水をくりかえすと、学生側も投石や火炎瓶などで応戦するものの、昼ごろまでに封鎖は解除されました。

全共闘主力が立てこもる安田講堂に機動隊が突入したのは午後3時ごろで、講堂周辺は4機のヘリコプターから投下された催涙ガスの白い霧に包まれる中、講堂に滝のような放水を浴びせ、学生側は投石と火炎瓶で頑なに抵抗しました。結局、機動隊が講堂最上階の時計台に達し、学生たち全員を排除したのは、翌日の午後5時45分のことでした。この2日間にわたる「安田砦攻防戦」は、全国にテレビ中継され、日本じゅうの人々が衝撃の映像を見続けました。

いっぽう、この攻防戦がつづいているころ、神田駿河台周辺では、中大、明大、日大を中心とした学生たちが、フランスの「バリ5月革命」(カルチェラタン闘争)にならって、機動隊と市街戦をくりひろげ、御茶ノ水駅から神保町に至る道路の一部を封鎖して「解放区」にしていました。

こうした「安田講堂」や「解放区」が解除されて一連の騒動が終わると、大多数の学生を巻き込んだ東大・日大の学生運動は、いっきに下火になるいっぽう、その他の大学では、闘争のテーマは違っても、全共闘は依然として健在で、全国165大学が「バリケード・ストライキ」を行い、11月には佐藤首相が沖縄返還交渉のために訪米する際には、抗議のゲリラ戦を演じて2000人以上が逮捕されたりしました。

やがて、全共闘内部の対立と戦術の過激化から、一般学生や市民の支持を失い、「革マル」(革命的マルクス主義派)、「社青同」(社会主義青年同盟)、超過激な「赤軍派」など各派に分裂してどんどん少数になり、運動は鎮静化していったのでした……。

会の後半は、前回に引き続き、メンバーの郡山・岩崎・小田・菅原各氏の「近況報告」が行われました。当時の「上智大学」にも学園紛争があり、日大闘争のような大規模なものではなかったものの、法政大学などの支援を受けた学生によるバリケードストライキ、これに対抗した大学側が機動隊出動を要請してロックアウトするなど、騒然とした一時期があった話には、多くのメンバーの関心を引きました。また、アメリカの大統領選に勝利した「トランプ・ショック」の話にも盛り上がり、今後の「昭和史研究の集い」の後半は、その後の「トランプ・アメリカ」など、話題のニュースをとりあげて話し合いをしようということになりました。


「参火会」11月例会 参加者
 (50音順・敬称略)



  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2016年10月20日木曜日

第26回「参火会」10月例会 (通算391回) 2016年10月18日(火) 実施

今回の「参火会」例会は、8月が大学の夏季休暇、9月は台風16号が関東接近のために休会となったため、3か月ぶりの開催となりました。恒例の「昭和史を考える集い」を変更し、メンバーの植田康夫氏が最近出版された『戦後史の現場検証━ルポライターの取材メモから』のお話を聞くことからスタートしました。




この本は、植田氏が大学を卒業後、「週刊読書人」に入社してわずか4年後の1965(昭和40)年に企画、「週刊読書人」に昭和41~43年(3年間)にわたって掲載した松浦総三、青地晨、草柳大蔵、田原総一朗ら第一線のジャーナリスト20名による渾身のルポルタージュ128編を収録した大著 (植田康夫編・創元社刊) です。




はじめに「ルポライターの見た戦後史」として、ルポライターの草分け的存在だった梶山季之と草柳大蔵両氏による対談があり、占領時代の松川事件、60年安保闘争、浅沼事件、東京オリンピックをめぐる裏情報など、「特ダネ」ともいえる内容の数々に、まず驚かされます。

全体の構成は、5章からなり、つぎのような目次になっています。

第1章 戦後理念の揺らぎ
45年(昭和20年)の実像・民主化の陰の人々・消えた民主人民戦線・20年前の保守と革新・戦後財界の黎明・2.1スト中止命令・松川の黒い霧①②③・知られざる言論弾圧①②③・朝鮮戦争と再軍備①~④・レッドパージ①~⑤

第2章 サンフランシスコ講和から血のメーデーまで
昭電疑獄と「中央公論」①②・講和と安保①~⑤・血のメーデー①~⑥・極左冒険主義の陰に①~⑩・「菅生事件」を追って①②・20年代の帰結 青梅事件①②③

第3章 出版界と言論ジャーナリズムの転換
転換するジャーナリズム①~⑭・砂川 そこに戦う人々①~④・長崎国旗事件の背景①②・ミッチ―ブームの裏側①~④・和歌山勤評闘争の背景①②③

第4章 日米安保とジャーナリズムの使命
安保闘争 市民運動の高揚①~⑤・安保闘争 体制側の論理と行動①~⑥・安保闘争 全学連をめぐる混迷・「安保」前後のマスコミ①~⑬

第5章 終わらざる戦後 
三池炭鉱事故の陰に①②・進行する過疎化の実相①②・在日朝鮮人の苦悶①②③・日本の中のベトナム戦争①~⑤・終わらざる戦後①~⑦

タイトルだけ見ただけでも、いかに力の入った企画だったかがわかります。植田氏の、当時を思い出すかのように語る言葉の一つひとつは生き生きとし、特に「松川事件」「下山事件」「帝銀事件」などをめぐる謎の事件が、その裏にアメリカがいたことをにおわす部分など、迫力のあるものでした。そして、連載から50年後にして、創元社の矢部社長という方が、この連載を高く評価し、「今もまったく同じ問題に直面していることに注目」して出版を決意したことも、高く評価したいものです。

それにしても、昨年から『「週刊読書人」と戦後知識人』の刊行、『出版の冒険者たち。(活字を愛した者たちのドラマ)』の出版により、『本は世につれ。(ベストセラーはこうして生まれた)』『雑誌は見ていた。(戦後ジャーナリズムの興亡)』に続く「出版3部作」を完結させ、今回の「日本の今に覚醒を促す」ルポと、立て続けに話題作を連発する姿に、大きな拍手をおくりたいものです。植田氏は、まさに「日本に初めて出版論を学問として確立させた功績者」であり、そういう人物が、私たちメンバーの身近におられることを、誇らしく思います。




その後、メンバーの一人ひとりが、「最近やってきたこと」 「これからやりたいこと」 「今、こころを占めていること」等など……1人3~5分程度の「近況報告」をする予定でした。ところが、鴇沢・反畑・山本・草ヶ谷各氏4名の話をうかがった段階で、時間切れとなってしまい、他のメンバーのお話は、次回以降に順延することになりました。


「参火会」10月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 深澤雅子 文独1977年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

2016年7月20日水曜日

第26回「参火会」7月例会 (通算390回) 2016年7月19日(火) 実施

「現代史を考える集い」 21回目  昭和41・42年 「経済大国をめざして」





今回は、NHK制作DVD20巻目の映像──
全日空機が羽田沖に墜落、カナダ航空機が羽田空港防波堤に衝突・炎上、BOAC機富士山付近で空中分解、YS11機が松山空港沖に墜落、愛知県・猿投町でダンプカーが暴走し園児11人死亡、戦後初の国債上場、世界最大級のタンカー「出光丸」進水、第1回物価メーデー、ビートルズ来日、NHK「おはなはん」放送開始、早大紛争始まる、千葉大チフス菌事件、荒船清十郎急行停車事件、田中彰治代議士恐喝・詐欺容疑で逮捕、共和製糖事件、衆議院「黒い霧解散」、衆議院総選挙・第2次佐藤内閣発足、美濃部革新都政誕生、佐藤首相外遊、佐藤・ジョンソン会談と日米共同声明、第1次羽田事件、吉田茂国葬、中央高速道路が一部開通、四日市ぜんそく訴訟、初の建国記念日……など約50分を視聴後、ベトナム戦争と反戦運動、中国・文化大革命、イスラエル・エジプト6日間戦争(第3次中東戦争)など、激動する世界について話し合いをしました。



「この時代の背景」

昭和39年(1964年)の「東京オリンピック」は、戦後の復興と先進国の仲間入りを世界に強烈にアピールした大会でした。しかし閉会の翌日、池田は病気辞任を発表。これを受けて同じ「吉田学校」の優等生でライバルだった佐藤栄作が首相となりました。

佐藤は、経済成長に全力をそそいでいた池田のやり残した政治・外交問題に取り組み、1965年(昭和40年)に日韓基本条約と付属の協定を結びました。さらに、沖縄の祖国復帰をめざす宣言をして、首相としてはじめて沖縄を訪問しました。高度経済成長も波に乗り、与野党の対立はあるものの大きな政治的な対立もなく、国民も猛烈に働きながら、「昭和元禄」を謳歌する時代でした。

しかし、海外に目を向けると、大きな動きを見せていました。

まず、「ベトナム戦争の激化と反戦運動の盛り上がり」です。そもそもアメリカがベトナムの内戦に介入するきっかけとなったのは、昭和37年(1962年)にアメリカが「南ベトナム」(ベトナム共和国)にベトナム軍事援助司令部を設置し、4千人もの軍事顧問団を派遣したことからでした。これが「北ベトナム」(ベトナム民主共和国)と、そのバックとなっている「ベトミン」(ベトナム独立同盟会・「ベトコン」はその兵士で、「南ベトナム解放戦線」を設立)を刺激し、内戦的なゲリラ戦があちこちで繰り返されていきます。

そんな小競り合いのなか、北ベトナム海域をパトロール中の米駆逐艦に北ベトナムの哨戒艇が攻撃を加える「トンキン事件」がおきました。これに対する報復として、昭和40年(1965年)2月に北ベトナム爆撃(北爆)を開始したアメリカは、重武装の海兵隊を投入し、大戦争に踏み切りました。(のちに「宣戦布告なき15年戦争」といわれる)  これに対抗して、中国やソ連が北ベトナムに大量の軍事物資を供給するなど介入をはじめ、ベトナムは冷戦下にある大国の代理戦争の様相を呈しはじめました。





以来、ジョンソン大統領の人気急落により、昭和43年(1968年)3月に北爆の停止と次期大統領選に不出馬を表明するまで、3年余り続いたアメリカ軍による北爆は、出撃機数26万機以上、投下爆弾16万トン以上(この中には、猛毒ダイオキシンの一種「枯葉剤」や強力な焼夷弾「ナパーム弾」も含まれていた) と大規模なものでした。このアメリカ軍の飛行機は、沖縄をはじめ、佐世保、横須賀、横田、岩国、三沢、相模原など、日本にある軍事施設は、アメリカがベトナム戦争を遂行する上で、不可欠なものでした。

日本政府は、日米安保条約がある以上、この戦争に中立であるわけにいかず、アメリカの政策を支持しつづけました。平和憲法があるため、自衛隊を直接派遣することはなかったものの、日本の産業界は資材や技術などをアメリカ軍に供給することにより、ベトナム特需が産みだされ、日本経済が大いに潤ったのは事実でした。

いっぽう、世界戦争に直結しそうなベトナム戦争に反対する「反戦運動」が、世界各地でおこります。アメリカの反戦運動は、大学から開始され、次第にその規模は拡大され、数十万、全米で数百万人の市民が参加する反戦デモまで組織されました。

日本の反戦運動は、当初は、当時の有力な労働組合「総評」が、ベトナム反戦を掲げてストライキを行いましたが、さまざまな無党派の市民運動が高まりはじめ、その代表といえるものが、1965年4月に発足した「ベトナムに平和を! 市民連合」(べ兵連)でした。

べ兵連の代表は作家の小田実(当時31歳)で、これまでの平和団体と異なり、規約・会員制度・役員選挙もなく、参加する市民の自発性によるユニークな活動を展開しました。この組織はその後の市民運動・NGOなどの原型を築いたものでした。その主な行動は、「反戦徹夜ティーチイン」(「東京12チャンネル」[今のテレビ東京]で放送) を行ったり、作家の開高健が中心となって『ニューヨークタイムズ』への意見広告の掲載、米脱走兵への援助、在日米軍兵士への反戦工作、東京新宿西口地下広場での「フォーク・ゲリラ集会」(毎週土曜日の夜、反戦フォークなどを歌う)など、広範な知識人がこれを支持・参加したほか、賛同する市民によって全国的な拡がりを見せ、各都市、大学、地域にべ兵連グループが作られ、最盛期の数は350を越えたといわれています。

いっぽう、隣国の中国では、昭和41年(1966年)5月に、「文化大革命」がはじまりました。当時の流行語になった「造反有理」は、背くことに理がある、反逆は正しいといった意味で、裏でこの革命を指導していた毛沢東は、中国が資本主義に傾斜することを防ぐには、革命を持続しなくてはならない。革命で新政権を作っても必ず腐敗する。だからまた、革命をつづけなくてはならないという持論を、当時10代の少年少女の「紅衛兵」に吹きこみ、これをを尖兵として、反革命分子を追放、粛清する運動を開始しました。3か月後には、紅衛兵旋風が巻き起こり、赤い腕章をつけたたくさんの中学・高校生らが、大人たちを次々につかまえて、三角帽子をかぶせ、糾弾しました。彼らは「黒五類」(こくごるい=地主・富豪・反動・腐敗・右派分子)と「四旧」(古い文化・思想・風俗・習慣)の破壊をスローガンに、連日連夜市内を駆けめぐり、知識人や市民をつるしあげたのです。毛沢東亡き後、中国近代化の象徴ともなった鄧小平も、つるしあげられた一人でした。こうして、北京を中心に全土で「文化大革命」が、10年もの長期間にわたって続きました。





翌年の昭和42年(1967年)6月5日には、イスラエル軍がエジプトを爆撃する「第3次中東戦争」が勃発しました。イスラエルの飛行機350機が、カイロ周辺にある20か所のエジプト空軍基地を一斉に攻撃し、エジプトの飛行機400機以上を地上で破壊、あっというまに制海権を奪いました。

つづいてイスラエルは、戦車を主力とした部隊を、ヨルダン領の東エルサレムを含むヨルダン川西岸、エジプトの占領下にあったゴザ地域、シナイ半島、シリア領のゴラン高原を占領しました。あわてた国連は11日、イスラエルとエジプト・シリア・ヨルダンに停戦要求し、双方がこれを受け入れたため大事にいたりませんでしたが、そのまま続けば、「世界戦争」につながりかねなかっただけに、全世界の人たちは、ほっと胸をなでおろしました。

イスラエルはこれを「6日間戦争」と呼んで誇らしげだったのに対し、エジプトとアラブ諸国はにとってこの敗北は大打撃となりました。11月になって国連安全保障理事会は、イスラエルに占領地からの撤退を要請し、中東諸国の主権を承認したものの、紛争の解決にまでは至らず、40万人ものパレスチナ人が難民として故郷を追われました。

またこの年の10月9日に、キューバ革命の功労者であるチェ・ゲバラが、ボリビアで戦死しました。世界革命を信じる人たちにとって、「どこにいようと、死がわれらに不意打ちをかけるなら、それを歓迎しようではないか」というゲバラの言葉は、彼らのスローガンの一つとされ、こんな社会主義革命が世界的に大きな動きとなっていた時代だったといえそうです。



「参火会」7月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒

2016年6月22日水曜日

第25回「参火会」6月例会 (通算389回) 2016年6月21日(火) 実施

「現代史を考える集い」20回目  昭和39・40年 「東京オリンピック」





今回は、NHK制作DVD20巻目の映像──
新潟地震、東京・品川の宝組化学品倉庫爆発、町田市商店街にジェット機墜落、米原子力潜水艦シードラゴン号佐世保入港、「蜂の巣城」陥落、ミロのビーナス公開、東海道新幹線開業、オリンピック東京大会開催、池田首相辞意表明・佐藤栄作内閣成立、日韓基本条約調印、衆議院で条約を強行採決、ベトナム戦争で北爆開始、ベ平連が初の反戦デモ、佐藤首相沖縄訪問、山陽特殊製鋼倒産、春闘・私鉄24時間スト、慶大・学費値上げ反対スト、東京の公衆浴場一斉休業、福岡・山野鉱ガス爆発、川崎市で土砂崩れ、ライフル銃乱射事件、朝永博士がノーベル物理学賞受賞、南極観測船「ふじ」出航……など約55分を視聴後、高度経済成長の象徴ともいえる東京オリンピック・東海道新幹線開業を中心に話し合いをしました。



「この時代の背景」





昭和39年という年は、何といっても「東京オリンピック」といってよいでしょう。戦後の復興と、先進国への仲間入りを世界に強烈にアピールした大会でした。10月10日の秋晴れの下、世界94か国、7492人の選手・役員が参加(史上最高)して、第18回オリンピック東京大会が開幕、7万4500人収容の国立競技場は超満員でふくれあがりました。それから15日後の10月24日夕方の閉会式では、整然とした開会式とはうって変わって、各国選手入り乱れながら、和やかに大会の幕を閉じるまで、多くの国民はテレビ中継にかじりつき、「スポーツの祭典」に酔いしれました。この15日間は、太平洋戦争で孤立した日本が「先進国入り」したことを実感した日々でもありました。選手たちの活躍もめざましく、体操、レスリング、柔道、重量挙げ、女子バレーなどを中心に、金16個、銀5個、銅8個のメダルを獲得。金メダルの数では、アメリカの36個、ソ連30個に次ぐものでした。

また、同年4月1日、日本がIMF(国際通貨基金)の8条国に移行したことで、「円」が世界の主要通貨と交換可能な通貨となり、戦後19年にして欧米主要国と並ぶ世界経済の仲間入りをはたしたことは、経済面でも世界から認められたことを意味していました。同時に、海外渡航が自由化され、これまでは政府関係、企業の業務関連、留学などに限られていた海外旅行が、一般の人たちへ開放されました。4月28日には、OECD(経済協力機構)の21番目の加盟国となり、アジアで唯一、国際社会で一人前の大人の国として認められました。輸入の自由化、外貨導入拡大ができる反面、発展途上国援助など、先進国としての義務と責任を負うことになりました。

9月7日には、IMF世界銀行東京総会が行われ、102か国1800人を前に、池田首相は「所得倍増計画は、国民に自覚と自信を与えた。戦後19年の高度成長で、日本の国民所得は、西欧水準に近づきつつあります。戦前80年でできなかったことを、戦後20年でやろうとしているが、これを可能にしたのは、国民の努力と国際協力である」と、胸を張りました。そして、10月1日には東海道新幹線が開業して、東京━大阪間を4時間(翌年11月には3時間10分)で走り、その9日後の東京オリンピック開幕となったわけです。また、この東京オリンピック開幕にあわせ、首都東京の大改革がなされ、首都高速道路・モノレール・地下鉄(丸の内線・日比谷線・浅草線)の交通網が整備されるなど、直接・間接投資は1兆円といわれる大規模なものでした。

ところが、東京オリンピックの中心となるべき池田首相は、このころガンに侵されて入院し、開会式にも病院から出席する状態で、オリンピック終了の翌10月25日、引退を表明しました。突然のことだったため選挙は行われず、11月9日に自民党両院議員総会で佐藤栄作が次期首相に決まり、同日、池田内閣の閣僚と高度経済成長をそのまま引き継いで、佐藤内閣がスタートしました。





昭和40年に入ると佐藤首相は、池田前首相が意識的に避けてきた政治的な問題への取り組みを開始。1月にケネディ暗殺後にアメリカ大統領を引き継いだジョンソンと会談し、日米間の懸案だった沖縄・小笠原諸島の施政権の問題を解決することを両者で確認しあいました。さらにジョンソン大統領は、経済成長を続ける日本に対し、アメリカの負担を肩代わりすることを求めました。

こうして佐藤首相は、沖縄問題を自身の内閣で解決せねばならないと自覚するとともに、8月には沖縄を訪問し「沖縄が祖国復帰しない限り、戦後が終わっていない」と、国民にもそれをしめしました。また、もう一つの懸案である韓国との国交正常化に取り組み、6月22日に「日韓基本条約」と関係協定、議定書の調印を行いました。これにより、韓国が朝鮮半島唯一の合法政府であることの確認がなされ、協定では対日請求権問題・在日韓国人の法的地位と待遇問題・漁業権問題などで合意し、韓国に対し総額8億ドル(2880億円)以上の経済協力を約束しました。

これに対し、両国とも学生を中心に大規模な反対運動が勃発しました。この条約が正式調印(批准)されると日本・韓国・アメリカの軍事同盟に発展し、アジアの平和安定が乱され、北朝鮮の出方次第では緊張が増すというものでした。両国の国会でも与野党の乱闘騒ぎがおきるものの、同年12月18日にソウルで批准書が交わされ、「日韓基本条約」が正式に成立しました。不人気な佐藤首相でしたが、歴史に残る成果を残すことになりました。

しかし、昭和40年度の補正予算として、佐藤内閣が行った戦後初となる「赤字国債」の発行を閣議で決めたことは、特筆せねばなりません。昭和40年は、急成長の矛盾が初めて表面化した年でもあり、山陽特殊鋼の倒産、山一証券の危機となって現れたことに対し、11月19日、歳入不足分を2590億円の赤字国債の発行で補うことを発表しました。これ以後、国債発行は雪だるま式に増えつづけ、わずか8年後の1973年に100兆円をこえ、現在1044兆円となっている財政赤字の端緒となりました。太平洋戦争中の「愛国国債」の乱発によるインフレの悪夢に難色を示した大蔵省(田中角栄大蔵相)が、押し切られたといわれています。

いっぽう目を外にむけると、昭和39年8月、トンキン湾で北ベトナムの哨戒艇が米国の駆逐艦2隻を攻撃するという事件がおこりました。ジョンソン米国大統領は、議会から、以後の武装攻撃を武力撃退してもよいという権限を与えられました。これに基づきジョンソンは、翌昭和40年2月7日、爆撃命令を下し、米軍の攻撃機70余機は国境を越え、北ベトナムのドンホイにある軍事基地を爆撃しました(北爆の開始)。さらに翌日には、重武装の海兵隊が投入し、以後27か月にも及ぶ、大戦争へ踏み切ったのでした……。

なお、「東京オリンピック」は、メンバー全員にとって、青春時代の大イベントだったことから、当時の思い出話に盛り上がる楽しい会となりました。

また、メンバーの竹内氏から、「参火会」(壱火会) のスタートした母体ともいえる「新聞学科同窓会」が54年の歴史があるにもかかわらず、長く休会状態なのは寂しい限りであること。特に、在校生たちとの交流に先鞭をつけ、新聞・出版・放送・広告の4分野から一人ずつ講師を立て、在校生たちに体験談を語る会は、とてもユニークで、こんな同窓会活動を行う学科は他に類を見ないもの……といった話をうかがいました。多くのメンバーの共感をえて、どんな方法で再活動をするのがよいか、今後の課題とすることになりました。



「参火会」6月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 菅原 勉 文英1966年卒
  • 竹内 光 文新1962年卒
  • 谷内秀夫 文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 深澤雅子 文独1977年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒