2016年5月2日月曜日

第23回「参火会」4月例会 (通算387回) 2016年4月19日(火) 実施

臨時会 「東日本大震災 被災地を巡って……」

2011年3月11日におこった「東日本大震災」から5年が経過しました。
この大震災は、日本人とくに東北・関東に住む私たちにとっては、一生のうちでも、最も強烈な体験であり、印象に残る大事件のひとつだったと思われます。

当日、リポートしてくださったメンバーの山本明夫氏にとっても、人一倍関心のあるテーマで、だからこそ、発生から2年半後、3年後、5年後の今回と、3度にわたって被災地の三陸・福島訪問という行動をおこされたのでしょう。

そこで今回は、会場での山本氏のリポートを再現していただきながら、特に訴えたいこと、現地を訪問しなくてはわからないこと、今後も被災地を見つめ続けることの大切さなどをつづってもらいました。





「東日本大震災 被災地を巡って……」 山本明夫氏 (71文新卒)

2011年3月11日には、私は赴任先の宮崎市にある大学研究室でテレビの国会中継を聞いていました。委員会室が大きく揺れる様子が写しだされ、緊急地震速報のチャイムが聞こえたため、急いで録画を始めました。

まず皆さんに見ていただくのが当日の津波の様子を伝える映像です(15分間)。
中継映像を見つつ鳥肌が立ち背筋が寒く震えたのを、つい最近のことのように覚えています。

次に、被災地の中で私が関心を持って訪れている女川(宮城県)、釜石(岩手県)、富岡町(福島県)の震災後の5年間の映像を見ていただきます(11分間)。





こうした被災地への訪問を続けていると、復旧・復興の様子がそれぞれの場所で違っていることがわかります。その中で、2013年秋に訪れて以来疑問に思っていることは“土地のかさ上げ”と“防潮堤”の復旧のあり方です。

ふたつとも国の取り組みはとても早いものでした。災害列島日本の政府は、こうした事態への対応に慣れているのかもしれません。しかし現地に入ってみると、「大津波被害をこれで本当に防げるのか?」という疑念が湧きあがってきました。そして、地元の人たちから話を聞くとその置かれた立場によって人さまざまな反応が返ってきます。人命を第一に思う人、生活基盤を優先する人……。

復旧を急ぐ官庁の担当者たちは、そうした人々の声を十分に聞いているのか? 多分そうではなく、過去の経験則を基に復旧工事を急いでいるのだろうと推測できるのです。

市街地再建にしても、まず道路がつき電柱が立ちます。しかし訪れるたびに移設が行われているのに気付きます。建物はすべて流されているのですから、幹線の上下水道や電気・ガスなどのインフラの整備をまず整えてから道路をつければ、掘り返しなどの二度手間が省けると思うのですが、そうはなっていません。荒涼とした土地に電柱が林立する様子は「住む人が復旧の中心に居ない」という印象を強く受けました。

防潮堤についてお話しします。国は海岸線400kmにわたって7~10mを超えるものを整備するとしています。しかし既に多くの関係者から指摘のある通り、「海沿いでありながら海の見えないところに住まうのか?」「今回も海が見えないために住民の避難が遅れた」などの問題が横たわったままになっています。

これに対して上智の卒業生でもある細川護煕さんや元横浜国大教授の宮脇昭さんなどが設立した「森の長城プロジェクト」は、震災瓦礫を海岸線に沿って高さ5m程に積み上げて盛り土をし、そこにドングリの生る常緑樹を植えて防潮堤の代わりとするものです。松などは根を横に張るため津波の直撃を受けると横に倒れてしまいますが、ドングリの生える植物の多くは根を縦に深く張るため津波の直撃を受けても倒れずにしなるようにして力を弱められると見られています。仙台市の南の岩沼市や福島県の南相馬市などで3年前に植えられた50cmほどの苗は地元の高校生や関東地方のボランティアの手入れもあり、すでに人の背丈を超えるほどに成長しています。

この森の長城は、単に津波を和らげるだけでなく公園としての役割も果たして、景観に溶け込んだ自然豊かな海辺のリクリエーションゾーンとして期待されています。こうした運動が、なぜ国の施策として実施されないのか不思議に思います。

また、女川町では浸水地域のかさ上げとともに新しい街づくりに着手しています。ここで注目するのは単なるかさ上げではなく、港から奥に向かってなだらかな傾斜地を造成したことです。日常では女川駅や商店街から海が見られますが、いざという時にはこのスロープを上って高台に避難することになります。日常性と減災対策の両立を取り入れた復興事業だと思います。かさ上げに用の土砂を削り取って出来た土地は住宅地として整備されると聞きました。

被災地を巡って感じることは、避難した人たちの帰還が進んでいないということです。地元の商業者は、なんとかして元の状態に戻したいと歯を食いしばって再建に取り組んでいるようですが、肝心の住民の減少が大きなネックとなっています。夜などは本当に「火の消えた町並み」で、被災地域の厳しさが迫ってきます。

私たち遠方の者たちには「千年に一度の未曾有の災害」を受けた人々に何ができるのか問われていると思います。さりとて妙案も出てこず、私としては被災地を巡ることによって人々の思いを聞き、声を掛けるとともに地元の旨いものをいただくことによって、多少とも力添えになるのではないかと考えており、今後も訪問を続けようと思っています。
 


「参火会」4月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 岩崎 学 文新1962年卒
  • 植田康夫  文新1962年卒
  • 小田靖忠 文新1966年卒
  • 草ヶ谷陽司文新1960年卒
  • 郡山千里 文新1961年卒
  • 酒井猛夫 外西1962年卒
  • 酒井義夫  文新1966年卒
  • 反畑誠一  文新1960年卒
  • 鴇沢武彦 文新1962年卒
  • 深澤雅子 文独1977年卒
  • 増田一也  文新1966年卒
  • 増田道子 外西1968年卒
  • 向井昌子 文英1966年卒
  • 山本明夫 文新1971年卒

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