2018年3月23日金曜日

第41回「参火会」3月例会 (通算41回) 2018年3月20日(火) 実施

「世界遺産を考える集い」第3回目 ヨーロッパ篇③ イタリア・バチカン・ギリシャ・オーストリア・ドイツ

今回は、下記資料「3-①~⑲」が事前にメンバーに渡され、全員がこれを読んだ上で、本田技研の系列会社「エスピージー」が制作した 3-①~⑲ の映像約42分を視聴した。



3-①  ヴェネツィアとその潟 
文化遺産 イタリア 1987年登録 登録基準①②③④⑤⑥
● 東方貿易で栄華を極めた水の都
イタリア北東部アドリア海に浮かぶヴェネチアは、海上に築かれた都市。118の島、176の運河、400以上の橋からなっていて、「アドリア海の女王」と称されている。この地に人々が定住しだしたのは、6世紀ころからといわれ、異民族の武力侵攻を受けたヴェネト人が、アルプスを越えてこの地域の潟(ラグーナ)に都市を築いた。7世紀に入ると本格的な建物が建てられるようになり、漁や交易経済体系が確立していった。8世紀にはヴェネチア共和国として実質的な独立国家となり、9世紀には聖マルコ(『マルコの福音書』を著す)の聖遺物が持ちこまれ、その遺骨を奉るサン・マルコ大聖堂がつくられた。その後300年間、東西貿易の一大拠点として発展したが、1797年ナポレオン1世による侵略を受け、約1100年続いた歴史に幕が下ろされた。832年に創建された「サン・マルコ大聖堂」は、一時火災によって焼失したが、1094年に今も残るビザンツ様式で再建された。内部には総面積4000㎡のモザイク画があり、マルコの福音書やヴェネチアの歴史などが描かれている。大聖堂に隣接する「ドゥカーレ宮殿」は9世紀に建造され、14世紀にヴェネチア共和国総督の邸宅に改築され、16世紀にヴェネチア派の画家ティントレットが描いた「天国」でも有名。カナル・グランデに架かる「リアルト橋」は、12世紀の木造橋を起源とし、16世紀に石造に改築されたが、この橋付近は、ヴェネチア最古の歴史をもつ。「カ・ドーロ」は、カナル・グランデに面して建つヴェネチア・ゴシック様式の邸宅で、外壁に金箔が用いられているため「黄金の館」とよばれ、ヴェネチア一の美しい建物といわれる。ヴェネチアは現在、地下水や天然ガスの採取の影響から、海に沈みかけており、1986年からユネスコが救済団体を組織し、世界各国から支援を受けて救済活動が行われている。 

3-② フィレンツェの歴史地区
文化遺産 イタリア 1982年登録 登録基準①②③④⑥
● ルネサンスが咲き誇った「花の都」
イタリア中部に位置するトスカーナ地方のアルノ河畔に広がるフィレンツェは、14世紀末から17世紀にかけてルネサンスの中心となった商業都市。12世紀に自治都市(コムーネ)宣言し、中世に毛織物業や金融業で栄え、14世紀初頭には13万人を擁する大都市に成長した。その中で台頭したメディチ家は、メディチ銀行を拡大させ、莫大な財を蓄えた。15世紀半ばには「コジモ・メディチ」が実質的に市政の支配権を握り、以後300年にわたってフィレンツェを支配した。市民の信望をえて、のちに「祖国の父」という称号を与えられたコジモは、市の税収の半分を負担し、図書館などの公共施設を建設、プラトン・アカデミーを設立して古典研究を奨励するとともに、ルネサンス芸術家を庇護した。フィレンツェの街でひときわ目を引く「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」は、コジモの援助によって建設されたルネサンス様式の建物である。ほかにコジモはヨーロッパ初の孤児院やメディチ・リッカルディ宮なども建設した。つづくコジモの孫の「ロレンツォ・メディチ」は、他都市と巧みに均衡をはかって外交を安定させ、「春(プリマベーラ)」「ビーナスの誕生」で知られる画家のボッティチェリ、「モナリザ」の作者で学者でもあったレオナルド・ダ・ヴィンチら芸術家を支援し、若きミケランジェロを見出して彫刻を学ばせたのもロレンツォで、1501年に26歳のミケランジェロは、巨大な大理石から像を掘り出すという難行に挑んだ「ダビデ像」は、ローマ帝国以来の傑作とたたえられた。16世紀に入ると、「コジモ1世」がトスカーナ大公となって領土を拡大し、数々の建物を改築するなどしてフィレンツェをさらなる華やかさに高めた。16世紀半ば、コジモ1世は、14世紀初めに建設されたゴシック様式の政庁舎ヴェッキオ宮を住居とし、大改築を施した。この宮殿の「五百人広間」壁面にはメディチ家を賞賛する絵で埋め尽くされている。なお、メディチ家の財産はフィレンツェのものとされ、「ウフィツィ美術館」にはメディチ家が収集した美術品の大半が公開されている。

3-③ ピサのドゥオモ広場
文化遺産 イタリア 1987年登録・2007年範囲変更 登録基準①②④⑥
● かつての海洋王国の繁栄をしのばせる建築群が残る広場
イタリア中部トスカーナ地方にあるピサのドゥオモ広場は、かつて地中海の覇権を握ったピサの繁栄を今に伝える。古代ローマ時代から他都市に支配され続けたピサは、11世紀にようやく自治都市になる。地中海沿岸の商業ルートを確立し、1063年にパレルモ沖海戦でサラセン軍に勝利した。また、数度の十字軍にも参加したことで、地中海航路の大半を支配下として、地中海貿易の拠点として繁栄した。このころの貿易で築いた莫大な富を背景につくられたのが、ドゥオモ広場の個性的な建築群。最も古い「大聖堂」は、パレルモ沖海戦の勝利を記念して海戦勝利直後に着工され、1380年に完成。白亜の大理石による均整の取れたロマネスク様式で、トスカーナ地方における聖堂のモデルとなった。大聖堂の正面にある「洗礼堂」は、完成に200年以上かかったことで、下層はロマネスク様式、上層はゴシック様式の建造物。内部はビザンツ様式の影響を受け、説教壇の側面には新約聖書の諸場面を表現したレリーフで知られる。1173年に着工された鐘楼は「ピサの斜塔」として有名。軟弱な地盤が原因で、着工後ほどなく傾斜が始まり、以来傾いた側を少しずつ高くして水平を保つように工事が行われたが、当初予定されていた高さを下方修正し、つり鐘のある最上層が取り付けられ55mで完成した。16世紀にガリレオが大きさの異なる鉄球を同時に落下させる実験を行ったという伝説でも有名。

3-④ ナポリの歴史地区
文化遺産 イタリア 1995年登録 登録基準②④
● 大国支配の歴史を物語る街並み
イタリア南部のナポリ湾に面するナポリは、紀元前5世紀に古代ギリシャによって建設された植民都市で、そのころは「新しい都市」を意味するネオポリス、転じてナポリと呼ばれるようになった。海上交易で栄えたナポリは、古代ローマ帝国や東ゴート王国の支配期を経て、6世紀にはビザンツ帝国の支配下に入り、8世紀からはナポリ公国として独立状態を保った。12世紀にノルマン人によるノルマン・シチリア王国の手に渡って、同国の首都となった。その後、オーストリア、フランス、スペインなどの大国の支配に置かれた末、1861年にイタリア王国に併合されて現在に至っている。美しいナポリ湾と、ヴェスヴィオ火山が織りなす風光明媚なところから、「ナポリを見て死ね」とまでいわれた。世界遺産に登録されたのはナポリの西部で、「スパッカ・ナポリ(ナポリをまっ2つに切る)」といわれ、ナポリ独特の雑然とした下町風景は、誕生以来2500年間に支配国の変遷とともに変わり続けた文化の影響が色濃く反映されている。
 
3-⑤ ポンペイ、エルコラーノ、トッレ・アヌンツィアータの考古地区
文化遺産 イタリア 1997年登録 登録基準③④⑤
● 古代ローマ都市を現代に蘇らせたタイムカプセル
イタリア南部のポンペイは、紀元79年、近郊にそびえるヴェスヴィオ火山の噴火により、火山灰に埋没した。16世紀に農民が偶然発見したポンペイの遺跡は、1748年から始められた発掘によって、姿を現した。広場を中心に市場や神殿、市庁舎、野外劇場、娼館、公共浴場給水設備など……の遺構が見つかり、当時の民衆の生活ぶりを今に伝える。また、高級リゾート地だったエスコラーノからは、ポンペイより優れた排水設備が、トッレ・アヌンツィアータからはネロ皇帝の后の別荘が発見された。

3-⑥ アルベロベッロのトゥルッリ
文化遺産 イタリア 1996年登録 登録基準③④⑤
● 奇妙な屋根の「トゥルッリ」が並ぶ街
南イタリアのブーリア地区には、石灰岩の土壌が広がっており、古くから石灰石を用いた独自の建築が発達した。アルベロベッロのトゥルッリも、独特の円錐状の屋根を持つ住居で、ひとつの部屋にひとつの石積みの屋根がつき、そんな部屋がいくつか集まって一軒の家になる。現在、アルベロベッロ旧市街にある2つの地域に、1000以上のトゥルッリがあり、現役の住居建築となっているが、石積み技術の継承など保存上の課題がある。

3-⑦ ローマの歴史地区
文化遺産 イタリア 1980年登録・1990年範囲拡大 登録基準①②③④⑥
● 長い歴史を伝える「永遠の都」
イタリア半島の中部にある首都ローマは、古代ローマ帝国の首都やキリスト教世界の中心地。ルネサンス以降は、芸術・文化の発信地などと地位を変えながらも、約2600年にもわたって、ヨーロッパの歴史の中で、重要な役割を果たしてきた。伝説によると、オオカミに育てられた双子のロムルスとレムスのうち、兄ロムルスが紀元前753年にパラティーノの丘にローマを築いたとされる。ローマの名はロムルスに因んでいる。紀元前10世紀ごろからこの地に人が住み始めると、都市国家となり紀元前509年に共和制となり、紀元前270年ころには半島全土を征圧して地中海の覇権を握った。紀元前27年にアウグストゥス(オクタビアヌス)を初代皇帝とする帝政が始まり、歴代の皇帝は、首都ローマに凱旋門、劇場、浴場、神殿、円形闘技場などを次々に建築し、現代も残る建築物群が立ち並ぶようになった。313年にはコンスタンチヌス帝がキリスト教を公認すると、キリスト教文化が繁栄し、教皇の住むカトリック教会の中心地として聖堂群が建てられている。「ローマ歴史地区の主な建築物」を掲げると、① フォロ・ロマーノ……「ローマ市民の広場」を意味する古代の公共広場。政治的な演説や集会、祭り、皇帝たちの凱旋行進が行われた。② コロッセウム……80年に完成した世界最大の円形闘技場。ヴェスバシアヌス帝が市民のための娯楽場とし、剣闘士同士の戦いや剣闘士と猛獣との格闘などの見世物が行われた。一層目がドーリア式、2層目がイオニア式、3層目がコリント式。③ パンテオン……ローマ人が信仰する「万神殿」。紀元前27年にアグリッパが建て、ハドリアネス帝が改築。ミケランジェロが「天使の設計」と絶賛。④ コンスタンチヌスの凱旋門……315年に、政敵に勝利したことを記念して建てられたローマ最大の凱旋門。他に、「カラカラ浴場」「フォーリ・インペリアーリ(諸皇帝の広場)「アウレリアヌスの城壁」など、単独でも「世界遺産」登録の価値あるものが多数存在する。

3-⑧ ヴァティカン市国
文化遺産 ヴァティカン 1984年登録 登録基準①②④⑥
● 教皇庁の置かれるキリスト教世界の最重要都市
ローマ教皇を国家元首とする「ヴァティカン市国」は、面積0.44㎢、人口800人の世界最小の独立国で、カトリック教会の中枢として、国全体が世界遺産に登録された唯一の場所。サン・ピエトロ寺院の立つヴァティカンの丘は、イエス・キリストの最初の弟子といわれる聖ペテロの墓所があったとされる場所。そこに、ローマ帝国皇帝として初めてキリスト教を保護したコンスタンチヌス1世の命により、バシリカ式の教会堂が建てられた。それから1000年ほど経った15世紀中頃になると、教会堂が老朽化したため、時の教皇ニコラウス5世によってより大きな聖堂への改築工事が始められた。ブラマンテを主任建築家に迎えて建築が始まるものの、技術的・資金的理由で工事は長い年月がかかり、ブラマンテの死後、ミケランジェロらに引き継がれて世界最大の「サン・ピエトロ大聖堂」が完成したのは1626年で、着工から完成までに約120年後のことだった。大聖堂以外の「ヴァティカン市国の主な建築物」は次のとおり。① ヴァティカン宮殿……サン・ピエトロ大聖堂の北部に広がるこの宮殿は、1378年以降ローマ教皇の住居となっている。宮殿内部には美術館、図書館、礼拝堂など多数あり、それらを総称して「ヴァティカン美術館」ともいわれている。美術館として開放されている部分だけでも1400部屋にもおよび、歴代教皇のコレクションで飾られている。② システィーナ礼拝堂……ヴァティカン美術館内の礼拝堂のひとつで、ミケランジェロの描いた天井画「創世記」や壁画「最後の審判」が特に有名。③ ラファエロの間……ラファエロが手掛けた壁画がある4室。特に「署名の間」にあるギリシャの哲学者を描いた「アテナイの学堂」はラファエロの最高傑作とされる。④ サン・ピエトロ広場……ベルニーニが設計した284本の円柱が広場を囲む。列柱廊の上部にある140体の聖人像もベルニーニの彫刻。⑤ オベリスク……サン・ピエトロ広場の中央に立つモニュメント。古代ローマの皇帝カリグラがエジプトから運ばせたとされる。

3-⑨ アテネのアクロポリス 
文化遺産 ギリシャ 1987年登録 登録基準①②③④⑥
● 女神アテネに捧げられた神殿群
アクロポリスは、古代ギリシャ最大の都市国家アテネの遺構が残る丘。標高456mの石灰岩の岩山の周囲に城壁を築いてつくられた面積4㎢のテーブル大地に、パルテノン神殿を中心とした古代ギリシャ建築の最高峰とされる建築物群が立ち並ぶ。アテネの古名アテナイは、この地の守護神であるオリンポス12神の一神で、戦いと知恵の女神アテナに由来する。ギリシャ神話によれば、アテナは海の神ポセイドンとこの都市の守護神の座を争い、どちらからの贈物がより市民を喜ばせるかを競った。ポセイドンが三叉の矛で岩を打ち海水の泉を噴出させると、アテナは杖で地を突いてオリーブの樹を生やした。人々は、飲めない海水より、生活に実りのあるオリーブを選び、アテナがこの都市の守護神に選ばれた。今も、アクロポリスの丘には、アテナが芽生えさせたというオリーブの樹が残っている。この地には、5000年も前から人が住みはじめ、紀元前8世紀ころからこの丘のふもとに街が形成され、丘の上にアテネの神殿が作られ、聖域として発展した。その後ペルシア戦争でアクロポリスは潰滅的な打撃を受けるものの、ペルシアに対抗するデロス同盟の盟主として繁栄し、ペリクレスがパルテノン神殿などの神殿を建造。やがてソクラテス、プラトン、アリストテレスら知識人がアクロポリス北西部のアゴラに集まって、哲学や政治を論じ、劇場ではアイスキュロスやソフォクレス、エウリピデスらの劇が演じられるなど、アテネはその後の世界に多大な影響を与えるギリシャ文化の中心地となった。「パルテノン神殿」は、ペルシア戦争の勝利を祝ってアテナに捧げられた神殿で、彫刻家フェイデアスを総監督に10年の歳月をかけて完成させた。高さ10.8mのエンタシスを持つ柱が東西に8本、南北に17本ずつ、計46本並ぶ。

3-⑩ ロドス島の中世都市
文化遺産 ギリシャ 1988年登録 登録基準②④⑤
● エーゲ海に浮かぶ要塞都市
エーゲ海の海上交通の要衝に位置するロドス島は、古代ギリシャ、古代ローマ、聖ヨハネ騎士団、オスマン帝国と、各時代の強国や軍隊の支配下におかれた歴史を持つ。世界遺産に登録されたのは、聖ヨハネ騎士団がイスラム帝国に対抗するために築いた全長4kmに及ぶ城壁に守られた要塞都市。城壁には11の門が造られ、城壁内には使用言語が分かれた8つの騎士団の館、騎士団長の館、施療院などのゴシック建築が良好な保存状態で残っている。16世紀以降は、オスマン帝国の支配下に入り、モスクや公共浴場などのイスラム建築も建てられた。

3-⑪ シェーンブルン宮殿と庭園
文化遺産 オーストリア 1996年登録 登録基準①④
● ハプスブルク家の栄光を伝えるマリア・テレジアの居城
オーストリア東北部、首都ウィーンにあるシェーンブルン宮殿は、オーストリアの女帝マリア・テレジアが大規模な増改築を行い、建造物と庭園が一体化した総合芸術作品と賞されている。その前進は、17世紀末、神聖ローマ帝国レオポルド1世がオーストリア・バロックを代表する建築家フィッシャーに命じて造営させた離宮で、1740年にマリア・テレジアがハプスブルク家の家督を継承すると、ここを居城と定めて大改築したもの。規模が拡大されただけでなく、壁画や装飾が施され、庭園も拡張され、つつましやかだった離宮は、壮大な宮殿に変貌した。19世紀に入って神聖ローマ帝国は崩壊するが、シェーンブルン宮殿は、歴史の舞台であり続け、ナポレオン1世がウィーンを占領した際には司令部がおかれ、1814~15年にはウィーン会議が開かれ、1961年にはアメリカ大統領ケネディとソ連の最高指導者フルシチョフとの歴史的会談が行われた。総部屋数1400を超える宮殿の中で最も豪華な部屋「百万の間」は、中米から取り寄せた紫檀の壁に囲まれ、金箔の額に入れられたペルシアの細密画が飾られている。公式行事の謁見の場だった「鏡の間」は、幼いモーツァルトがマリア・テレジアの前で御前演奏をした部屋でもある。その他「ナポレオン室」、庭園の間といわれる「ベルグルの間」など、みどころ多数。花壇を中心に広がる庭園には、噴水やアーケード、植え込みなどが巧みに配置されているほか、世界最古の動物園、ガラス建築の植物園なども立ち並ぶ。

3-⑫ ザルツブルク市街の歴史地区
文化遺産 オーストリア 1996年登録 登録基準②④⑥
● 塩の交易で栄えた大司教の街
オーストリア北西部に位置し、ドイツ国境近くの山間部にあるザルツブルクは、紀元前から岩塩の採掘と交易によって栄えた宗教都市。739年に司教座がおかれ、司教都市の性格を強め、8世紀には大司教座に昇格した。1077年には、教皇グレゴリウス7世と神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世との叙任権闘争をめぐりローマ教皇側に立った大司教が、帝国の侵攻から逃れるための隠れ家として「ホーエンザルツブルク城」を建設した。この城は、建設以来、拡張と軍備強化が繰り返され、15世紀には武器庫を備える城塞となった。16世紀になると、塩の取引で生ずる税金により莫大な富を手にした大司教たちが、「北のローマ」をめざしてバロック建築に力を注ぎ、特に1578年に就任したディートリヒ大司教は、歴代大司教の邸宅となるレジデンスや大聖堂を完成させた。いっぽう、ドイツ語圏最初期の教会建築や、696年ごろ作られた最古の男子修道院も残っている。ザルツブルクは、音楽の都としても知られ、1920年から開かれる夏の「ザルツブルク音楽祭」や、ザルツブルク生まれのモーツァルトを記念して開催されるフェスティバルには、世界中から毎年多くの人が訪れる。

3-⑬ グラーツ歴史地区
文化遺産 オーストリア 1999年登録・2010年拡大登録 登録基準②④
● ハプスブルク家の庇護のもとに発展した歴史都市
ウィーン東北にあるオーストリア第2の都市グラーツは、古代ローマ帝国の時代に設けられた砦が起源で、町の語源はスラブ語で「砦」を意味する「グラデツ」からきている。15世紀末、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ3世がエッゲンベルグ城を築くと、ハプスブルク家の庇護のもとに発展。歴史地区には、聖エギディウス大聖堂や、ドイツ語圏初のルネサンス建築のイエズス会神学校が残る。2010年に追加登録された「エッゲンベルグ城」は、ゴシック様式のホール、後期ゴシック様式の礼拝堂やらせん階段、ルネサンス様式の庭など、時代時代の建築様式が融合している。

3-⑭ ハルシュタット・ダッハシュタイン、ザルツカンマーグートの文化的景観
文化遺産 オーストリア 1997年登録 登録基準②④
● 山と湖に囲まれた美しき「塩の街」
オーストリア中央部にある「ザルツカンマーグート(良い塩の産地の意)地方」は、アルプスの山々に囲まれた風光明媚な湖水地帯で、その名の通り、古来より岩塩の採掘で栄えてきた。中でもハルシュタットの街の周辺では、岩塩の採掘は数千年にもわたるもので、先史時代の墓地や青銅器などの遺物が発掘されていて、その文化は「ハルシュタット文化」と呼ばれている。その後もローマ帝国などによって岩塩採掘が進められ、中世には岩塩は「白い黄金」といわれるほど価値が高まり、16世紀に神聖ローマ帝国によって国有化され、ハプスブルク家の重要な財源となった。この街の近くにあるダッハシュタイン山には、巨大な氷穴や洞窟がひろがっており、地質学的重要さから、ここも併せて世界遺産に登録された。

3-⑮ ヴァッハウ渓谷の文化的景観
文化遺産 オーストリア 2000年登録 登録基準②④
● 中世そのままの景観を残すドナウの渓谷
オーストリア北部のドナウ川下流地域に広がる景勝地で、メルクからクレムスに至る南北の山脈に抱かれた36キロに及ぶ渓谷一帯地域をさす。渓谷の両岸には古城やメルク修道院など修道院が点在し、観光クルーズとしても人気が高い。ドナウ川流域には太古の人々が生活していた数多くの痕跡が残っているが、1909年にヴィレンドルフで発見された石像はその精緻さにおいて最上のもので、「ヴィレンドルフのヴィーナス」と呼ばれている。

3-⑯ ケルン大聖堂
文化遺産 ドイツ 1996年登録 登録基準①②④
● 時代を超えて生みだされた荘厳なゴシック聖堂
ドイツの西部、ライン河畔にあるドイツ有数の古都ケルンに、ひときわ高くそびえる大聖堂は、1248年の建築開始から632年もの長い歳月をかけ、1880年に完成した。大聖堂の基となった聖堂は、9世紀に建てられたもので、火災により一度焼失して再建された。13世紀に入って大規模な建て替えが計画されると、建築家のゲルハルトが招かれ、フランスのアミアン大聖堂を手本とする工事がはじまった。ところがあまりに壮大な計画だっため、ゲルハルトの死後も設計担当者が何代も引き継がれたが、たびたび資金不足に陥った。工事開始から300年以上過ぎた1560年に、内陣が完成しただけで工事はまた中断してしまう。その後300年間も、そのままの姿で放置された。1814年に偶然、オリジナル図面が発見され、その2年後にそれを補完する資料が見つかると、1842年ついに工事が再開され、38年後の1880年、中世そのままのゴシック様式の大聖堂が人々の前に姿を見せた。長期間にわたる建築では、その時代の様式に影響を受けて設計が変更されてしまうことが多いが、ケルンの大聖堂は、最初の図面通り、純粋なゴシック様式として完成した。奥行き144m、最大幅86mの建築で、高さ157mの2本の尖塔は、聖堂建築としてはドイツ「ウルム大聖堂」(161.53m)に次ぎ、世界2位の高さを誇る。

3-⑰ ヴュルツブルク司教館、その庭園と広場
文化遺産 ドイツ 1981年登録・2010年範囲変更 登録基準①④
● バロック様式の粋を集めた壮麗な館
南ドイツのロマンティック街道の起点となるヴュルツブルクは、11世紀ころから司教領として栄えた都市で、17~18世紀には、地方領主のシェーンボルン家が司教の座につき隆盛の時を迎えた。1719年に司教に任命されたヨハン・フィリップ・フランツは、市の中心に司教館の建設を決め、建築家バルタザール・ノイマンに設計を依頼。指揮をとるノイマンのもとには、イタリアやオーストリアから一流の建築家や画家、装飾家が集まり、1744年に内装と庭園をのぞいた建物が完成した。それから36年後の1780年、内装と庭園の完成をもって18世紀バロック建築の傑作と評される司教館が完成した。建物内には5つの大広間と300以上の部屋があるが、中でも有名なのは「階段の間」で、柱の無い広大な吹き抜けに画家ティエポロの描いた世界で一番大きいフレスコ天井一枚画がある。この吹き抜けは、当時としては常識外れの設計で、「設計ミス」「絶対に崩れる」などと酷評されが、ノイマンは「砲弾を打ち込まれても崩れない」と反論、事実、第二次世界大戦の空襲でここだけ天井が残った。その頑丈さには、建材に軽くて丈夫で耐火性がある凝灰岩を使ったためで、レジデンツ裏にはホーフ庭園が広がる。

3-⑱ ライン渓谷上流中部
文化遺産 ドイツ 2002年登録 登録基準②④⑤
● 中世の伝説に彩られたロマンあふれる渓谷
南北ヨーロッパの大動脈であるライン川のうち、コブレンツとビンゲン・アム・ライン間の65kmにわたる渓谷が世界遺産に登録されたところで、古城やブドウ畑などが織りなす景観が広がる。8~14世紀にかけて川岸に関所となる城や城塞が40以上も築かれたが、17~18世紀にドイツとフランスの抗争により荒廃した。19世紀初頭、プロイセンの統治下に入ると通行税が廃止され、荒れはてた古城の改修が進められた。なお、現在では渓谷に沿ってのクルージングが盛んに行われており、ザンクト・ゴアー西側あたりがライン川で最も川幅が狭いが、詩人ハイネの詩でうたわれたローレライの岩があるところとして有名。
  
3-⑲ エッセンのツォルフェライン炭坑業遺産群
文化遺産 ドイツ 2001年登録 登録基準②③
● ドイツ重工業の発展に寄与した炭坑業遺跡群
ドイツ西部エッセン市にあるツォルフェライン炭坑業遺産群は、19世紀半ばに発足したドイツ関税同盟炭坑の跡地。この炭鉱は世界最大規模の採掘量を誇ったが、燃料の主流が石油へ移行したことで衰退し、1986年に産業遺産として保護されることになった。特に、1932年より稼働開始した第12抗のボイラー棟は、中世のバウハウスのスタイルを採り入れた建物により、近代産業建築のモニュメントと見なされ、現在はデザインセンターとして利用されている。


世界遺産の「登録基準」について
① (文化遺産) 傑作……人類の創造的資質や人間の才能
② (文化遺産) 交流……文化の価値観の相互交流
③ (文化遺産) 文明の証し……文化的伝統や文明の存在に関する証拠
④ (文化遺産) 時代性……建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す
⑤ (文化遺産) 文化的な景観……独自の伝統的集落や、人類と環境の交流
⑥ (文化遺産) 無形……人類の歴史上の出来事や生きた伝統、宗教、芸術など。負の遺産含む
⑦ (自然遺産) 絶景……自然美や景観美、独特な自然現象
⑧ (自然遺産) 地球進化……地球の歴史の主要段階
⑨ (自然遺産) 生態系……動植物の進化や発展の過程、独特の生態系
⑩ (自然遺産) 絶滅危惧種……絶滅危惧種の生育域でもある、生物多様性


以上の映像を視聴後、今回も前回と同じような流れで、酒井(兄)猛夫の記した「海外旅行ブログ」を基に、ほとんどの場所を訪問したことのある酒井義夫が中心となって補足説明を行い、メンバーとの対話を行った。そして、後半の初めに次のような提案をした。

「42分間の映像をご覧になって、多くの方がお気づきになったと思いますが、本田技研系列のSBGが制作した [一つの世界遺産を1分半から2分半(平均2分)にまとめた映像] は、ほぼ的確と思われましたが、今回のメインとなっているイタリアの「フィレンツェ」「ローマ」「ヴァチカン」までもが2分程度になっているのは、いささか不満が残るものでした。そこで提案ですが、次回(4月17日)の「参火会」は、「イタリア特集」として、ルネッサンスの先駆けとなり、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロらの優れた才能が遺した芸術作品にあふれる「花の都フィレンツェ」、フォロロマーノ、コロッセウム・パンテオン・コンスタンチヌスの凱旋門など、単独でも世界遺産に登録してもよさそうな名所旧跡の宝庫ともいえる「ローマ」、ローマ市内にあってカトリックの総本山として国のすべてが世界遺産となっている「ヴァチカン」、そしてもう一つ、今回の映像にはありませんでしたが、レオナルド・ダ・ビンチの最高傑作「最後の晩餐」のあるミラノの3都市を中心とした会にしたいと思いますが、いかがでしょうか」…と。
出席者全員の賛成が得られたことで、次回の「参火会」(4月17日) は「イタリア特集」とし、フィレンツェ、ローマ、ヴァチカン、ミラノに焦点をあてた会とすることになった。

イタリアへは、酒井猛夫は2005年に、義夫は1987年、1998年、2001年と3度訪れており、特に印象深かった街のひとつ「ヴェネツィア」からはじめてみよう。

3-①  ヴェネツィアとその潟 
文化遺産 イタリア 1987年登録 登録基準①②③④⑤⑥
お渡しした今回の「資料」にある通り、ヴェネツィアとその潟の「登録(評価)基準」は、文化遺産の①~⑥までのすべてを満たしている。ちなみに、その評価基準のポイントを記すと、
「評価基準1(傑作)」・・・・海の上に築かれた独特の街として「傑作」。「評価基準2(交流)」・・・・サン・マルコ大聖堂の建築様式や壁のモザイク画は、東西の文化が「交流」して生まれた。「評価基準3(文明の証し)」・・・・東洋と西洋、イスラム世界とキリスト教世界を結びつける海洋国家の存在を証す。「評価基準4(時代性)」・・・・14~16世紀のルネサンス期を代表する建築が街にいくつも残された。「評価基準5(文化的景観)」・・・・海の浅瀬(潟)に巧みに杭を打ち込んで築かれた街は、自然に美しく溶けこんだ「文化的景観」の一例。「評価基準6(無形)」・・・・マルコ・ポーロの生誕地として世界に名を馳せ、小説や絵画・オペラの舞台になった。シンボルとしての価値を持つ。



TBS系列で日曜日の午後6時から毎週30分間放送されている「TBS世界遺産」は昨年20周年を迎えたが、この番組制作にディレクター・プロデューサーとして20年間深く関わってきた高城千昭氏は『「世界遺産」20年の旅』という著書の中で、「3つのお薦め世界遺産」のトップにヴェネツィアを挙げ、「海に浮かぶ街」「金のモザイク画」を美のツボとして、次のよう記している。



[この地は、1000年以上も前は葦の生い茂る干潟だった。無数の杭を打ち込んで地盤づくりから始め、118の島を400もの橋と迷路のような運河でつないで街にした。馬や車を締め出し、今も人間の足と船だけが交通の手段だ。上空から街を見渡すと、中世の人々が街づくりにかけた執念に圧倒される。「金のモザイク画」は、サン・マルコ大聖堂内部にある総面積4000㎡のモザイク画のことで、金色を中心にした様々な色のわずか1cmほどの小片タイルを壁の漆喰に埋め込んだ、気の遠くなりそうな「点描画」なのだ。遠目にはありきたりに映るキリスト教の巨大な絵が、すべて小指の爪ほどの小片タイルと知ると、まったく見え方が違って見える]・・・・と、この地を訪れる人は、このあたりに注目してほしいとしている。



私たち兄弟は、いっしょの訪問ではなかったが、ほとんど同じような場所を訪れている。かつてナポレオンが「世界一美しい空間」と称したサンマルコ広場、黄金色に輝くサン・マルコ大聖堂や、ティントレットやヴェロネーゼらヴェネチア派の見事な絵画で飾られたドゥカーレ宮殿に感嘆し、ゴンドラに乗って30分ほどの運河クルーズを楽しんだ。その後、ベネチアングラス工房に立ち寄り、鉄パイプの先端に高熱で溶かしたガラスを巻きつけてシャボン玉のように息を吹いて膨らませる成型方法を見学してから、ブローチやネックレスなどさまざまなガラス製品の美しさに見とれたことを思い出す。今回、さまざまな資料を読んだり調べたりするうち、さらにその魅力にとりつかれ、改めて再訪したいという思いが強くなった。

今回の映像の後半は、オーストリアだったが、酒井兄弟が共にオーストリアの首都ウィーンを訪れたのは、2010年4月下旬「中欧5か国(オーストリア・チェコ・ドイツ・スロバキア・ハンガリー)周遊旅行」の時で、ウィーン郊外にある「シェーンブルン宮殿と庭園」と「ウィーン歴史地区」を堪能した。

3-⑪ シェーンブルン宮殿と庭園
ウィーン郊外にある「シェーンブルン宮殿」の名は、17世紀初頭にハプスブルク家のマティアス皇帝(在位1612~19年)が、狩猟用の館の近くの森でおいしい水が湧き出す「美しい泉(シェナー・ブルンネン)」を発見してから、「シェーンブルン」の名がついたといわれる。皇帝レオポルド1世(在位1658~1705年)が、ベルサイユ宮殿をしのぐものを造りたいと、建築家フィッシャー・エアラッハに命じたものの、途中財政難にみまわれて中絶した。これを、女帝マリア・テレジアは1743年に改築命令を下して、今日の『マリア・テレジア・イエロー』に輝く荘厳な姿を見せている。



16人の子どもを生んだテレジアの末娘がマリー・アントワネットで、フランス国王ルイ16世に嫁ぐもののフランス革命の犠牲になって処刑されてしまった。アントワネットは嫁ぐまでこの宮殿で育ち、女帝の前で演奏を披露したモーツァルトが、アントワネットに求婚したという逸話も残されている。1441室のうちもっとも重要な約40室が一般公開されているが、この時は、フランツ・ヨーゼフ皇帝の控えの間や執務室・皇妃エリザベートが生活した部屋・豪華な鏡の間・漆の間・大ギャラリー・丸い中国の小部屋など、権力の象徴ともいえる装飾品の数々に驚嘆した。さらに、宮殿の南側には、手入れの行き届いた1.7㎢(東京ドーム36個分)の広大な庭園があり、色とりどりの春の花が咲き乱れた幾何学模様の花壇は実に鮮やかだった。南の奥の丘には塔にもみまがう「グロリエッテ」という1775年に建設された軍事記念門がある。また、宮殿の西側には動物園もあるというが、高い樹木の続く林が特に印象的だった。

「番外」1 ウィーン歴史地区
文化遺産 オーストリア 2001年登録 登録基準②④⑥
● 多彩な建築様式と音楽で彩られた古都
オーストリアの首都ウィーンは、13世紀に神聖ローマ帝国皇帝のルドルフ1世の領土となり、ハプスブルク家の王都として発展してきた。ウィーンの中心部にある「ホーフブルク」が王宮で、1918年まで、650年間にわたり、王家の居城となった。世界最大級の宮殿複合体は、最古の部分は13世紀に建てられ、最新部分は20世紀初頭に完成した。現在は数多くの博物館に貴重な文化遺産が展示されているほか、オーストリア共和国大統領官邸がある。
17世紀後半にオスマン帝国に包囲されたが、これを撃退したことで、城壁内におしこめられていた市街が市外に拡大し、ヨーロッパ文明の中心地として繁栄した。19世紀、ハプスブルク家最後の皇帝であるフランツ・ヨーゼフ1世は内側の城壁を取り払って、「リンク・シュトラーセ」と呼ばれる「環状道路」を設置した。世界遺産のウィーン歴史地区の多くはその周囲約5kmのこのリンク内側にあり、路面電車がこのリンクを走っている。
ウィーンを代表する歴史的建造物には、まず12世紀から15世紀に建てられた「聖シュテファン大聖堂」があげられる。歴史あるウィーンの街のシンボルで、市民から「シュテッフル」の愛称で親しまれている。12世紀半ばにロマネスク様式の教会として建設されたことに始まり、13世紀から14世紀にかけてハプスブルク家のルドルフ4世の命により、建物主要部分がゴシック様式に建て替えられている。
「ベルヴェデーレ宮殿」は、17世紀後半に対オスマン帝国戦で活躍したサヴォイア公オイデンによって18世紀前半に建設されたバロック様式の夏の離宮で、城壁の外側にある丘の上に建てられた。ここからはウィーンの街が一望できる。現在はオーストリア美術館になっており、上宮には、クリムトの「抱擁」など代表作ほか19世紀から20世紀にかけての作品が、下宮にはバロック美術や中世の作品が収蔵されている。
「音楽の都ウィーン」を象徴する「ウィーン国立歌劇場」は、ウィーン市民の誇りであり、世界中の音楽愛好家を魅了する場所で、今でも世界最高レベルを保っている。日本を代表する指揮者小沢征爾が2002年から2010年まで、この歌劇場の音楽監督を務めたことでも知られる。
「自然史博物館」と「ウィーン美術史美術館」は、王宮前のマリア・テレジア像の左右に、ほぼ同じ形の宮殿風の建物が対となって建っている。西側にあるのが「自然史博物館」。東側にある「美術史美術館」は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の命によって1872~92年にネオ・ルネサンス方式で、皇帝所蔵の絵画や工芸品のコレクションを収め、展示するために建てられた。この美術館は、パリのルーブル美術館やスペインのプラド美術館にも引けをとらない。中に入ると、まず目に入るのが壮麗な「階段の間」に描かれたクリムトの壁画などの大階段で、高い天井に大理石をふんだんに使った豪華な内装はまさにハプスブルグ家が誇る美の殿堂。



ブリューゲルの「バベルの塔」「農家の婚礼」「雪中の狩人」、フェルメール「画家のアトリエ」、ルーベンス「毛皮をまとった画家の妻」、ベラスケス「青いドレスのマルガリータ」「自画像」、クラナハ「ユディト」「ザクセンの3王女」、ティントレット「スザンナの沐浴」、ラファエロ「草原の聖母」等など、数々のヨーロッパ名画は必見。

今回の後半は、酒井兄弟が2007年5月17日から28日まで参加した「世界遺産の街に泊まるドイツ12日間」についての旅行記を基に進めたい。この回も酒井兄は自身のブログで、帰国後の6月1日から40回にわたって詳細に記述し、その量たるや単行本一冊分ほどにもなる。そこで、酒井弟がそのポイントとなる内容をコンパクトにまとめてみた。

「番外」2 ハンザ都市リューベック
文化遺産 ドイツ 1996年登録 登録基準
● 「ハンザの女王」と呼ばれた中世の商業都市
ドイツ北東部、トラヴェ川の中州にあるリューベックは、1143年にホルシュタイン伯アドルフによって建設され、ザクセン公ハインリヒ3世の保護を受けて発展し、1226年に神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世から「帝国自由都市」の特権を与えられて、バルト海沿岸で初となる自由都市となった。
12世紀にバルト海沿岸の交易を400年以上も独占し続けた「ハンザ同盟」が誕生すると、その盟主となり、1669年に解散するまで、「ハンザの女王」として繁栄し続けた。14、15世紀がハンザ同盟の全盛期といわれ、加盟都市は200以上、2000~3000もの船が穀物・木材・毛皮・鉱石・蜜蝋・琥珀・塩・ワイン・亜麻布・干魚やニシンなどを運んでいた。軍隊まであり、1370年にはデンマークを破った実績もあるという。



世界遺産に登録されているのは、リューベック旧市街の大半で、街を象徴する2本の尖塔が印象的な「ホルステン門」をくぐるとレンガ造りの旧市街が広がる。そこには、「マルクト広場」に面してドイツ最古のゴシック様式建築の「市庁舎」、125mある2基の尖塔をもち、バッハがパイプオルガンに魅了されたという「聖マリア聖堂」ほか5つの聖堂、ドイツ初の福祉施設「聖霊病院」、船員組合会館など、13~17世紀の建築物が立ち並び、往時の繁栄をしのばせる。ドイツの文豪でノーベル賞を受章したトーマス・マンの祖父母の家も残り、ここは1993年に「マン兄弟記念館」となっている。我々はこの地に2泊し、夕食をとった船員組合の家は、店内に飾られた帆船模型やランプなどの船具、舟板製の支柱やテーブルなどが船員組合の姿を保ち続けており、そんな雰囲気の中で、数百年も続いているという「ジャガイモと魚料理」を食したことを思い出す。

3-⑯ ケルン大聖堂



人口100万を超えるドイツ第4の都市ケルンのシンボルともなっているカトリック大聖堂は、建築開始から632年もの長い歳月をかけ、1880年に完成した。第2次世界大戦時に連合国から14回もの爆撃を受けたものの崩れず、1956年の復旧工事で復元された。建築物のすべての縦の線が、高さ157mの2本の尖塔の頂点を目指して「駆け上がって行くような造形」が眼を奪う。内部も広く全長144mあり、広い幅の翼廊と高さ40mもあるい中廊、大聖堂を支える石柱と石像などが配され重厚感がある。西ファサードから入って右手にはバイエルンの王、ルートヴィヒ1世が1842年に奉納した5枚のステンドグラスが設置されている。これは「バイエルンの窓」と呼ばれキリストの受胎の告知、アダムとイブ、4人の預言者、東方三博士の礼拝、聖霊降臨、聖ステファノの殉教などが描かれていて、外から差し込む神秘的な光に心が安らぐ。
中央祭壇の奥には世界最大の黄金で飾られた豪華な聖棺があり、東方三博士の聖遺骨が入っている。祭壇の右上の柱には「ミラノのマドンナ」と呼ばれる聖マリアの彫像があり、1164年に黄金の聖棺の東方三博士の聖遺物と共に、この聖堂に運ばれてきた。そもそも「ケルン大聖堂」は、この三博士の聖遺骨を納めるのにふさわしい聖堂を建築したいと、1248年に建築開始されたものだった。近年ライン川沿いには高層ビルなどの建設が進み、ケルン市内にも高層ビルの建築計画がもち上がり、2004年に「危機遺産リスト」に登録されたが、2006年に解除された。「ケルン大聖堂」は、ケルンの象徴というより、ドイツの象徴でもある。世界遺産としていつまでも堂々たる姿を見せてほしいものだ。

3-⑱ ライン渓谷上流中部
南北ヨーロッパの大動脈であるライン川のうち、コブレンツとビンゲン・アム・ライン間の65kmにわたる渓谷が「ライン渓谷上流中部」という世界遺産になっている。今回のツアーの目玉のひとつが、「ライン川ランチ・クルーズ体験」だ。乗船するのはライン川東側にあるザンクト・ゴアスハウゼンで、対岸にはラインフェルス城が見える。200人も乗れそうな大きな外輪船「ゲーテ号」で、12時すぎにここを出発し上流に向かう。すぐに「ねこ城」が見え、5kmも行くと左手に130mほど突き出た岩山の「ローレライ」が見えてきた。ライン川の川幅が最もせばまる上、水面下に多くの岩が潜んでいて、かつては船の事故が起こりやすい交通の難所だった。歌にもなったローレライだが、魔女伝説にもつながりがある。さらに、ラーンエック城、マルクスブルク城など次々に現れる城を見ながら船内で食事をし、13.2km・約3時間の船旅はたいくつすることなく進み、ドイツを代表するワインの産地「リューデスハイム」に着いた。
この街の中心となるのは「つぐみ横丁」で、わずか150mほどの狭い路地だが、両側にワイン酒場がぎっしり軒を連ね、昼から深夜までにぎわっているという。この横丁に隣接するホテルへ荷物を置き、この地を探索することにした。まず我々がめざしたのは、山の上にあるドイツ統一の象徴として1871年から6年かけて建立された「ニーダーヴァルトの記念碑」。ゴンドラ・リフトという名のケーブルカーの往復利用券を購入して上った。うわさに違わず、25mの台座にある像高10.55mの「女神ゲルマニア」の堂々たる銅像は一見の価値がある。



下りも同じリフトで帰るのは残念な気持ちになり、素晴らしいブドウ畑とライン川の絶景をもう一度楽しもうと、帰路は歩くことにした。下りきってもまだ陽が高いので、「つぐみ横丁」を散歩した。この横丁は、まだ明るいこの時間でもワイン酒場ばかりでなく、パブ、ディスコ、土産物屋も大きなにぎわいをみせており、ラインガウ地方のワインの集積地・消費地として栄えてきた「リューデスハイムの発展を象徴」しているようだ。この横丁の外れにある店に、ツアー仲間たちと連れ立って入り、今が旬といわれる白アスパラガスのハム添え料理を食べることにした。もちろん、この地方特有の白ワイン「リースニング」も充分味わった。生演奏付というのがこの店の売りになっていて、喧騒が心配だったが、演奏される曲は私たち世代になじみのある1970年代ポップスが多く、ダンス・フロアもあって、元青年たちは大いに盛り上がった夕食になった。

「番外」3 ドレスデン・エルベ渓谷
ドレスデンは、「バロックの真珠」「エルベ川のフィレンツェ」などと呼ばれ、その美しい街並みが称えられていたが、第2次世界大戦の空爆で街の80%が被害を受けた。エルベ川南側にある旧市街は、多くの歴史的建造物が再建・修復されたが、新市街は東独時代の建物が多くみられ、垢抜けしない感じも残る。ドレスデンの次のような見どころは、旧市街に集約される。
「ドレスデン城」は、12~16世紀に建てられたザクセン王の居住地で、北側の城壁にある2万5千枚ものマイセン焼のタイルで造られた [君主の行列] は、歴史の古い順に左から93人が描かれており、第2次世界大戦の爆撃から奇跡的に逃れた逸品で、ザクセン王室の財宝を展示する緑の円天井、宝石で作られたミニチュアとともに必見。



「ツヴィンガー宮殿」は、フリードリヒ・アウグスト2世(アウグスト強王)の命により、1710年から38年にかけて建立した宮殿。このころがザクセン王国の最盛期で、1697年からは隣国のポーランド王も兼任した。建築家ペッペルマンと彫刻家ベルモーザーが造ったドイツ・バロックの傑作といわれ、宮殿内には武器庫・数学・物理博物館などの他、マイセン陶磁器を発明させたアウグスト強王が収集した東洋の陶磁器はヨーロッパ一の「陶磁器コレクション」がある。さらに、アウグスト強王とフリードリッヒ2世の2代にわたって集められた14~18世紀のヨーロッパ絵画約800点を展示する「アルテマイスター(ドレスデン絵画館)」もこの宮殿内にある。ラファエロ「シスチーナのマドンナ」、フェルメール「手紙を読む婦人」「取り持ち女」、レンブラント「放蕩息子:レンブラントとサスキア」「自画像」、ティントレット「サタンと戦うと天使ミカエル」「眠るヴィーナス」、ベラスケス「ある貴紳の肖像」など、一流画家の代表作ともいえる名品の数々に驚かされる。
「大聖堂(旧宮廷教会)」も、アウグスト強王が1738~55年に建てた宮廷用の教会で、強王はカトリックに改宗したが、ザクセンではプロテスタント勢力が強かったため宮廷用としたという。屋根には78体の聖人像が立ち、高さ約85mの鐘楼がそびえる。
「ザクセン州立歌劇場(ゼンパー・オーパー)」は、ゴットフリート・ゼンパーによる設計で、1841年に建設された。たびたびの火災や戦災での消失にあったが、2002年に再建し、現在でも世界屈指のオペラ歌劇場として世界中の人々から愛されている。この歌劇場は、ワーグナーの代表作「さまよえるオランダ人」や「タンホイザー」が初演されたことでも知られる。



「フラウエン(聖母)教会」は、18世紀半ばに建てられた美しく壮大なドームを持つバロック様式の建物だったが、第2次世界大戦の爆撃で壊され、戦後は「反戦のシンボル」として瓦礫のまま放置されていた。1994年から再建を開始し2005年に修復が完成したばかりだった。崩れた石を可能な限り元の場所に移す方法を採用しているため、新しい石とまだなじんでいないものの「戦争の傷跡」から「平和と和解の象徴」へと生まれ変わった教会前には、見学のために並ぶ人々の列が絶えない人気のスポットになっている。
この地は、2004年に「ドレスデン・エルベ渓谷」として世界遺産に登録されたが、2009年6月、景観を損ねる橋の建設を理由に、世界遺産リストから削除されたが、再考してほしいものだ。

[閑談休話]  ベルリンの「中華料理店」で小澤征爾氏にバッタリ
今回のドイツ旅行では、6日目に「ノイシュバンシュタイン城」の側にあるミージュカルシアターで人気のミュージカル「ルートビッヒ2世」を観賞するはずだった。ところが、急遽休演になったために、その代替としてベルリンでの最終日、「ベルリンフィルハーモニーのコンサート」を観賞することになったと、阪急交通社からの旅行日程表の送付とともに通知があった。当方としては、どちらでもよいと気軽に考えていた。
それが当日の朝になって、「みなさん朗報です。今晩のコンサートは、小澤征爾の指揮するチケットが手に入りました」という添乗員からの報告に、全員が歓声を上げた。小澤征爾は、2002年からウィーン国立歌劇場の音楽監督をやっていたものの、2006年1月に帯状疱疹・慢性上顎洞炎・角膜炎などを併発して、1年5か月にわたり休養していた。それが2週間ほど前の新聞に「小澤征爾復活」の記事が載っていたのは記憶していたが、その復活公演が、ベルリンフィルハーモニー大ホールで3日間行われ、その最終日の公演チケットを入手したということだった。
当日は、朝からベルリン市内観光で、「ブランデンブルク門」や「ベルリンの壁」が残されている場所、ナチスによって大量虐殺されたユダヤ人犠牲者を慰霊する「ホロコースト記念碑」などを見たあと、世界遺産となっている博物館島にあるたくさんの博物館のうち、「ペルガモン博物館」をじっくり観賞した。
当日の午後は、オプショナルツアーとして阪急交通社が用意した「世界遺産ポツダム観光」(昼食付・一人17800円)に兄夫妻と私(義夫)は参加する予定だった。ところが、希望者が10人未満のため不催行となってしまった。そこで、ホテルに近いところにベルリン動物園があるので、午後はたっぷりと動物園見物をしようということにした。酒井弟は、日本食が恋しくなったということで、ガイドブックに載っていた動物園駅に近い日本料理店をめざしたがなかなか見つからないため、小道にあった中華料理店に入ることにした。久しぶりの箸による昼食を楽しんでいたところ、何とそこへ、新聞を小脇に普段着姿の小澤征爾がひょっこり入ってきて、私たちのテーブルの斜め前に座ったのだ。帰り際に、「今夜の演奏会を楽しみにしています」と挨拶をしたところ、「日本からこられたのですか。私は、よくこの店で食事をしているのです」といった短い会話だったが、さまざまな偶然の連続がなくては生まれない出会いだった。
当日夜の指揮小澤によるコンサートの演目は、① プロコフィエフ作曲「ピアノ協奏曲 第2番」②チャイコフスキー作曲・交響曲第1番「冬の日の幻想」で、ピアニストは、2000年の「ショパンコンテスト」で優勝した25歳の中国人ピアニストのユンディ・リだった。小澤は、再起を印象づけるため、場所や交響楽団を選んだのと同じように、指揮者としての実力を発揮できる曲を選んだに違いない。1曲目は若いピアニストを引き立てる抑え気味の指揮だったが、2曲目は、小澤の真骨頂が発揮され、管楽器の音を包みこむ弦楽器の響きが見事だった。アレグロの演奏では、小澤の指揮は「華麗な舞いそのもの」で、利き手の右より、やや上に位置する「黄金の左手」のリードが迫力を出していた。満席の会場から鳴りやまぬ拍手が響きわたり、何度も指揮台に駆け戻る小澤の足の軽やかさは71歳(当時)の年齢を感じさせないもので、彼の「完全復活」を心から賞賛したい気持ちになった。
(文責 酒井猛夫・酒井義夫)


「参火会」3月例会 参加者
 (50音順・敬称略)


  • 草ヶ谷陽司 文新1960年卒
  • 郡山千里  文新1961年卒
  • 酒井猛夫  外西1962年卒
  • 酒井義夫   文新1966年卒
  • 菅原 勉  文英1966年卒
  • 竹内 光  文新1962年卒
  • 反畑誠一   文新1960年卒
  • 深澤雅子   文独1977年卒
  • 増田一也   文新1966年卒
  • 増田道子  外西1968年卒
  • 向井昌子  文英1966年卒
  • 山本明夫  文新1971年卒
  • 蕨南暢雄  文新1959年卒